男性に交じってチャレンジした女性初のパイロット【兵頭精】─スキャンダルで墜落した女性イカロス─
不倫スキャンダルでたたかれ、表舞台から姿を消した有名人は数多い。女性初のパイロットであった兵頭精(ひょうどうただし)もこうした有名人の1人であった。 男性が多い職業といえば、何を思い出されるだろうか。真っ先に頭に浮かぶのがパイロットかもしれない。民間飛行の黎明期に、果敢にチャレンジし、ライセンスを取得した女性がいた。 彼女の名前は、兵頭精。明治32年(1902)、愛媛県宇和郡東仲村(現愛媛県北宇和郡鬼北町)で、農業を営む兵頭林太郎の子として生まれた。2男4女の末っ子だったが成人したのはこのうち長女のカゾエ、次女の譲留と精のみであった。精が11歳の時に父が亡くなり、14歳年上のカゾエは家を継ぎ、一家を支えるため土木業の世界に飛び込んで、男性に交じって働くことを選んだ。次女の譲留は、助産婦として働いた。 こうした2人のおかげもあって幼いころから成績が優秀だった精は、松山の女学校に進学することができた。無事卒業したころ松山にアメリカのパイロットがやって来た。アクロバット飛行を披露して評判をとると精は、取りつかれたようにパイロットになることを考えるようになった。実は精の亡き父は空を飛ぶことを夢見て、図面を引いたり、模型を作ったりしていたのである。その事を精は父が亡くなってから知った。 当時、パイロットになるには軍隊に入るか、高い金を払って訓練を受けるしか方法はなかった。女性の精には、高い金を払って訓練を受けるしか道はない。しかし、母とカゾエは大反対、せっかく女学校を出たのだから学校の先生になれという。そんな中で精の理解者であった譲留は、精と一緒に家出。大阪で譲留は助産婦として、精は薬剤師見習いとして働いて金を貯めようとしたが、なかなか貯金できない妹2人を見かねてカゾエが金を出した。 実は彼女は、土建請負業の男の愛人となっており、その男から2000円借りたのだ。三菱UFJ信託銀行のホームページによると大正元年の1円は給料ベースで考えると4000円の価値があったそうだから、今でいう8000万円もの大金をポンと出してくれたことになる。 この時、精は20歳。若い女性がいきなり訪ねていっても相手にされないだろうと、同郷の弁護士富田数男に同行を頼んだ。精が入ろうとしていた養成所は、自動車学校に看板を掛けかえていた。別のところでは女性というだけで門前払いされた。伊藤音次郎(いとうおとじろう)の養成所を富田が見つけて来てそこに入所。訓練費用は1分2円、しかも機体を破損した時にはその修理費用を負担しなければならない。そのため、カゾエの借金は5000円にもなっていた。 普通は半年ほどで卒業するところ3年半かかり、大正11年(1922)、三等飛行操縦士の免許を取得。免許制度になってから38番目、女性としては第1号であった。取得直後に帝国飛行協会主催の三等飛行操縦士飛行競技のスピード競技に参加、15人中10位と成績は振るわなかったものの、初の女性パイロットとして脚光を浴びた。 膨大になった借金を返済するためにもこれからパイロットとして活躍しようとした矢先、精が流産したことがマスコミにスクープされる。相手は弁護士の富田。富田は妻がありながらも精と関係を結んだ。精も、世話になった富田に迫られてむげにはできなかったのだろう。精は、世間の批判を一身に受けた。その上、マスコミに追い回されて訓練所から逃げ出し、富田とともに身を隠した。 翌年に起こった関東大震災の混乱もあり飛行機どころでなくなった精は、富田の弁護士事務所の手伝いをするようになり、弁理士の資格を取って借金返済のためにがむしゃらに働いた。峰香という子供にも恵まれ、傍から見れば幸せな生活に見えたかもしれない。しかし、震災前にパイロットとして復帰しないかという話があった時に、富田が猛反対したことがずっと尾を引いていた。復帰すればやっと世間が忘れたことを蒸し返されるかもしれない。富田はそれを恐れていたのだろう。それ以降、2人の仲はぎくしゃくし、ある日富田が忽然と姿を消した。事務所の女性も同時にいなくなったので、どうやら駆け落ちしたようだ。 残された精は、富田の弟子である若い弁護士とともに、事務所を継続。そのうちに顧客であった小山梧楼という弓道師範と暮らすようになり、飛行機とはまったく関係のない生活を送った。 昭和51年(1976)、精は再び、マスコミに登場する。この年のNHKの朝の連続テレビ小説『雲のじゅうたん』が放送されたからだ。このドラマは女性初のパイロットが主人公。特定のモデルはないとされながらも、マスコミは女性初のパイロットの資格を取得した精を探し出して取材した。それまで精は、自分がかつてパイロットであったことを語らなかったという。
加唐 亜紀