「なんで私が全部?」こぼれた涙 一人娘が背負った「トリプル介護」
ためらいつつ離職、3人をケア
仕事にやりがいを感じ始めた33歳の時。1型糖尿病を患っていた50代後半の母が低血糖で倒れ、頻繁に救急搬送されるようになった。週に1回、多ければ2~3回。仕事は滞り、職場に迷惑をかける罪悪感ばかりが募った。生活を考え離職はためらったが、搬送が半年で28回に上り、退職を決めた。 離職は長くても半年と踏んでいたが、母の搬送に付き添っていた祖母が救急車の揺れで腰の骨を折り、急きょ入院することになった。助けが必要だったのは、母だけでなかったことを悟った。祖父も身体が衰え、着替えや入浴の手伝いが必要になり始めていた。 母は検査で片目の視野狭さくが判明。インスリンの注射がきちんと打てておらず、里美さんが朝昼晩寝る前の1日4回の注射に付き合わねばならなくなった。 母と祖父母の世話の負担が一挙にのしかかった。家に居着かない父はむろん頼りにならなかった。内科、眼科、整形外科、皮膚科……。かかりつけ医への付き添いは計10カ所以上にのぼり、3人のうち誰かを家に置いて診察を待っている間は、家のことが心配で落ち着かなかった。
のしかかる負担、悔し涙
1人では抱えきれず、叔父たちに相談したが「おじいちゃんとおばあちゃんに散々かわいがってもらった『内孫』じゃないか。長男の嫁が世話できないのなら、お前がやるしかない。介護士だからなんとかできるだろう」と突き放された。 「なんで私が全部?」 吐き出せない不満は日々たまっていった。貯金を取り崩し続ける生活も怖かった。当時、祖父は要介護3で、祖母は要支援2。施設の入所や通所も考えたが、祖父母は強く嫌がり、利用は諦めた。プライドの高かった母が周囲に「(祖父母は)私が介護している」とうそを話しており、近所にばれないようにヘルパーを頼むこともできなかった。 逃げ出したい状況でも、弱っていく祖父母を放っておくことなどできない。悔しくて涙が出た。 離職は約1年続き、35歳の時に、3人の介護が比較的落ち着く夜間だけ働こうと復帰。老人ホームやグループホームを掛け持ちして月に10日ほど働き、20万円ほどの収入を得られるようになった。母と祖父母の介助は、当時中学生だった娘の手を借りるしかなかった。 次第に認知症になった祖父は2009年から入院し、11年に亡くなった。13年には祖母が亡くなり、その半年後には母が脳梗塞(のうこうそく)で倒れて寝たきりに。長期療養型の病院に入院し、5年後に母をみとった。