ユニクロ2号店失敗 柳井正、「金の鉱脈」を捨て去る決断
『「金脈をつかんだ!」叫ぶ柳井正 ユニクロ1号店、開店秘話 』で紹介した通り、ユニクロ1号店の滑り出しは想定以上の好調さだった。しかし、成功の隣には落とし穴が待ち受けていた――。ようやく見つけた「金の鉱脈」を捨て、抜本的に作り替える。ノンフィクション『ユニクロ』(杉本貴司著)より抜粋・再構成し、柳井正の「決断」の背景に迫る。(文中敬称略) 【関連画像】『ユニクロ』これぞ決定版。迫真のノンフィクション! 「ユニクロ」という金の鉱脈をつかむまでの暗黒時代。製造小売業(SPA)への挑戦。東京進出とフリースブームの到来。苦戦する海外展開。ブラック企業批判――柳井正と同志たちの長き戦いをリアルに描く。杉本貴司著/日本経済新聞出版/2090円(税込み) ●「僕のおごりでした」 暗黒の10年間をへて柳井がついに掘り当てたユニクロという「金の鉱脈」。ここから飛躍的な成長が始まった、……わけではなかった。 広島の繁華街に近い1号店から歩いて数分の距離にある映画館の2階に、柳井正は広島2号店を作ることを決めた。路面店である1号店と比べて不利なことは承知していたが、「賃料が安かったので、売れたらぼろ儲(もう)けだなと胸算用していた」という。 これが裏目に出た。 「僕のおごりでした。自分が思っている通りの店なら絶対にはやると思っていたのが、大失敗です」 広島2号店には柳井の趣味が色濃く反映されていた。300坪ほどもある広い売り場面積の半分ほどを、ハンバーガーショップとビリヤード台を置いたプールバーにしてしまったのだ。ちなみにバーガーが350円でホットドッグは280円だ。 結果は大ハズレ。当時の小郡商事(現ファーストリテイリング)の年間利益は7000万円ほどだったが、これが吹き飛んでしまうほどの赤字となった。 「頭の中が真っ白になりましたよ」 そう振り返りつつ、柳井はこうも付け加えた。「でもね、ものごとはやってみないと分からない。僕は失敗だと思ったとき、その理由を考え抜くんですよ」 そうして失敗を次の成功への気づきに変えてしまえばいいというのが柳井の思考法である。このときの「気づき」は、飲食店を併設したことより立地を甘く見たことに尽きた。自ら「僕のおごり」と言うように、賃料の安さに目がくらんだことを今でも反省材料にしているという。 ●ファストファッションの限界 広島に作った2つのユニクロは、はっきりと明暗を分けることになったのだが、経営者としての柳井のすごみはこのすぐ後に取った行動に見て取れる。 最初期のユニクロは「カジュアルウエアの倉庫」をモチーフとした。アメリカでの視察旅行で立ち寄ったコープ(生協)をヒントに、当時のアパレル店では常識だった接客を排し、客が思い思いに欲しい服を棚から取って買い物かごに入れていく方式を取り入れたのだ。今では当たり前の風景だが、当時は斬新なアイデアだった。 ただし、当時のユニクロは我々が現在よく知るものとはかなり違っていた。棚に並べられていたのは、他社から買い付けてきた服だった。アディダスやナイキ、リーバイス、エドウイン……。 大衆受けする服を大量に買い付けて大量に売る。2000年代に入ってファストファッションと呼ばれるようになったビジネスモデルだが、この当時のユニクロはまさにその典型だった。 柳井はそんなユニクロを金の鉱脈と呼んだが、それで満足しているわけではなかった。むしろファストファッションの限界を早くも感じ取っていた。 ファストファッションではどんな服を取り扱うかについてはメーカーや卸に主導権があり、小売店側は売り切れるものを確保するという受け身の姿勢にどうしてもなりがちだ。価格設定はメーカーや卸に握られる。 この構図はカジュアルウエアに限った話ではなく、柳井の祖業である紳士服でもまったく同じだ。いわば業界の常識。どこまで行っても小売店側が不利になるように思える負の連鎖を断ち切るにはどうすればいいのか――。柳井は小さな成功に満足することなくその解を探し続けていた。