内戦危機の南スーダン、誰と誰がなぜ対立してるの?
2013年12月15日、アフリカ北東部にある南スーダンで軍の一部が反乱を起こし、他の部隊との間で戦闘が発生しました。これをきっかけに戦闘は国内の各地に広がり、年明けまでに数千人が死亡し、約20万人(南スーダンの人口は約1000万人)が避難する事態になりました。混迷する南スーダンの現状を解説します。【国際政治学者・六辻彰二】
2011年に誕生、最も若い独立国
南スーダンは2011年7月、スーダンの南部が分離独立してできた、世界で最も若い独立国家です。かつてのスーダンでは、アラブ系のイスラム教徒が多い北部が、アフリカ系のキリスト教徒が多い南部を支配する構図が定着していました。 これに対する反発から、1955年から72年まで第一次内戦が、1983年には第二次内戦が発生。20年近く続いた第二次内戦の果てに、2005年1月には南北間で即時停戦、南部に暫定自治政府を設置すること、さらに将来的に独立に関する住民投票を南部で実施することなどに合意。6年近くの暫定自治を経て、2011年1月に実施された住民投票の結果、南スーダンは独立を達成したのです。
大統領と前副大統領が対立、民族間の戦闘に
ところが、南スーダンでは独立から間もなく、内部分裂が深刻になりました。キーパーソンになったのは、キール大統領とマシャール前副大統領の二人でした。 もともと、この二人が所属し、南スーダン政府を握るスーダン人民解放運動(SPLM)は、スーダンからの独立を目指して戦ったゲリラ組織です。しかし、SPLMはアフリカ系キリスト教徒がほとんどという点で共通しながらも、内部は必ずしも一枚岩ではありません。 キール大統領は南スーダン最大の民族ディンカの出身で、これに対してマシャール前副大統領は人口で二番目に大きい民族ヌエルの出身です。スーダンからの独立闘争の最中には、マシャール率いるヌエルのグループが、キール率いるディンカの主流派と対立し、一時SPLMを離れた経緯があります。 独立後、マシャール氏が副大統領に就任したことで、この派閥争いは沈静化したかにみえました。しかし、SPLM内部での対立は続き、最終的に2013年7月にキール大統領がマシャール副大統領を罷免。これに対して、マシャール氏は「キールが独裁化した」と非難。マシャール派の兵士が蜂起して政府軍と衝突すると、キール大統領は「マシャールがクーデタを起こした」と非難。民族間の戦闘が一気に拡大したのです。