パンデミックは必ずまた起こる――尾身茂が振り返る日本のコロナ対策、成功と失敗
準備不足の一例として挙げるのがPCR検査だ。2009年に新型インフルエンザが世界的に流行した際、PCR検査体制の強化が提言として出されていたが、実現しないまま、今回のパンデミックに直面。その結果、検査のキャパシティーがアメリカや韓国などと比較して極めて小さかった。 もう一つ、準備不足の最たる例として医療情報のデジタル化の遅れを指摘する。 「専門家にとって重要なことは、今の状況を分析して、それに基づいた対策を政府に提言することです。しかし分析するためのデータが不十分かつアクセスに時間がかかる。電話やファクスなどで各地域から情報を送ってもらう必要があり、情報分析の担当者が体を壊したりもしました。今回、私たちが感じた最も強いフラストレーションの一つです」 また、質が高いといわれる日本の医療はなぜ逼迫したのだろうか。 「感染症法上の位置づけが2類相当で一部の医療機関しか診られなかったので、患者数が少なくても逼迫するというのがまず一つ。それから、日本の病院は中小病院が約7割で、高齢者医療に特化しているところが比較的多い。また、経営を成り立たせるためには病床をある程度埋めなければならず、いつ来るかわからないパンデミックに備えて空けておくことが難しいのです。さらに病床当たりの医師の数が欧米に比べて少ない。感染症は全身疾患ですから、総合的に診られる医師を育てなくてはならないという課題もありますね」
「尾身茂」とは何者か
コロナ禍、尾身は日本中から知られる存在になった。そもそもいったいどんな人物で、なぜ白羽の矢が立ったのだろうか。 1949年、クレーン運転手の父と太っ腹で社交的な母のもとに生まれた。「幼稚園を中退になった」と笑うほど、やんちゃできかん坊だったという。この性格が「三つ子の魂百まで」で、職業選択や仕事の姿勢にもつながっていると自身を分析する。 高校3年の時に当時は珍しかったアメリカ留学を果たす。費用の大部分がアメリカや日本政府の負担で留学生の負担はわずかだったが、家に貯蓄がなく、両親がかき集めてくれた。豊かなアメリカの暮らしを体験し、国力の差を痛感して帰国すると、日本は学生運動のただ中。留学で外交官を夢見たが、言い出せる雰囲気ではなかった。 「外交官なんて、権力側、人民の敵という雰囲気だった。なりたい職業になってはいけないという悩みを抱えました」