遠藤周作『沈黙』の舞台、そして潜伏キリシタンの足跡を訪ねて 『イエスの生涯』映画化に挑む巨匠―スコセッシ監督は「無力なイエス」の姿をどう描くか
天野 久樹(ニッポンドットコム)
遠藤周作の代表作『沈黙』を原作に、映画『沈黙-サイレンス-』(2016年公開)を製作したマーティン・スコセッシ監督(米国)が、遠藤作品の2作目として『イエスの生涯』の映画化に意欲を燃やしている。『沈黙』の主題の延長線上にあるとされる「永遠の同伴者イエス」を、この11月に82歳を迎える巨匠はどう描くのだろうか。
必要なのは「愛」であり、病気を治す「奇跡」ではない
今年1月、米紙ロサンゼルス・タイムズが『イエスの生涯』映画化決定のニュースを報じた。 同紙のコラムニスト、グレン・ウィップがスコセッシへのインタビューなどを基にまとめた記事で、スコセッシが2023年にローマ教皇フランシスコと面会した際、イエスに関する映画を作ると伝えたこと、まだ「インスピレーションの中を泳いでいる」状態ながら、脚本はすでに完成しており、年内にも撮影が開始される予定であることが明かされた。 『イエスの生涯』は、『沈黙』が出版された7年後の1973年に刊行された。英語、イタリア語、中国語にも翻訳されている。 のちに遠藤は、講演集『人生の踏絵』の中で次のように語っている。 「『沈黙』は、〈迫害があっても信念を決して捨てない〉という強虫の視点ではなくて、私のような弱虫の視点で書こうと決めました。弱虫が強虫と同じように、人生を生きる意味があるのなら、それはどういうことか──。これが『沈黙』の主題の一つでした。この〈強虫と弱虫〉というのは、『沈黙』以後も大切な主題となったのです。強虫にはもちろん敬意を払いますが、私は強虫になれないだけに、弱虫への共感をずっと持ち続けました。なぜ強虫は強くなれたのか、弱虫は生まれ持った性格的なものなのか、そんなことを考え続けてきた。」 遠藤によると、これまで聖書を何千回と読んできたが、自分とは縁遠いと感じる部分が数多くあったという。それが『沈黙』執筆後、ふと自分と同じような人間―弱虫―が主人公だという視点で読み返したところ、聖書が「どうやって弱虫が強虫になれたか」を書いた本として、身近に感じられるようになったのだという。 『イエスの生涯』はタイトルが示す通り、イエスの評伝である。 ただ、遠藤が描くイエスは、奇跡など起こさない。英雄的でもなく、美しくもない。民衆の失望と怒りと嘲笑を買い、弟子たちからも誤解され、見捨てられる「無力で孤独な男」だ。それでも、彼らと悲しみや苦しみを分かち合おうとし、共に涙を流してくれる母のような「永遠の同伴者」となるべく、すべての人々の苦しみを背負い、十字架の上で殺されることを選ぶ。 イエスを「強虫」とすると、弟子たちは「弱虫」。師が捕まるとクモの子を散らすように逃走する。弟子とバレたら、自分も殺されるとおびえたからだ。このあたり、踏み絵を突き付けられ、「足を置かないと殺すぞ」と脅かされて踏んだ、江戸時代の日本人と同じである。 私にとって聖書のいちばん面白いポイントは、こうした弱虫の弟子たちがまた集まってきて、自分が裏切ったイエスという人のことを喋(しゃべ)って、教えを広め、結局は迫害されて死んでいく、というところなのです。つまり、弱虫が強虫になっていった。なぜ、そうなれたのか?(遠藤周作『人生の踏絵』)