遠藤周作『沈黙』の舞台、そして潜伏キリシタンの足跡を訪ねて 『イエスの生涯』映画化に挑む巨匠―スコセッシ監督は「無力なイエス」の姿をどう描くか
イエスの教えをより親しみやすくするために
『イエスの生涯』執筆にあたり、遠藤は、キリスト教に無縁の読者が実感できるイエス像を具体的に書くよう、自らに課したという。過去に記されたあらゆる「イエス伝」を踏まえながら、創作と思われるエピソードについても、真実が潜んでいるとみて尊重し、想像を巡らせている。 そうした遠藤独特の“聖書観”をスコセッシはどう描くのだろうか。 彼の構想では、作品の舞台は主に現代だが、特定の時代に縛られることなく、時代を超えたものにしたいという。また、イエスの核となる教えに焦点を当て、組織化された宗教に関するネガティブな重荷を取り除き、より近づきやすいものにするため、新しい方法を見つけようとしている、という。ロケ地の候補には、イスラエル、イタリア、エジプトが挙がっている。 ロサンゼルス・タイムズ紙のインタビューの中で、「宗教」についてこうコメントしている。 今、「宗教」という言葉を口にすると、誰もがいきり立つ。いろいろな失敗があったからだ。だがそれは、必ずしも最初の衝動が間違っていたことを意味しない。一度、元に戻って、それについて考えてみよう。君はそれを拒否しても構わない。しかし、拒否するとしても、それは君の生き方に変化をもたらしているのかもしれない。即座に却下しないでほしい。 10月に入り、クランクインが延期になったという情報を基に、引退の臆測も広がったが、スコセッシはそうした外野の声を一蹴。 「まだ作るべき映画が残っている。神が私にそれを作る力を与えてくれることを願っている」と意欲を燃やす。
父・周作との長崎取材旅行の思い出
スコセッシは、シチリア系イタリア人の移民の家に生まれ、マフィアの支配するニューヨークのリトルイタリーで育った。こうした生い立ちは、腐敗した社会や、矛盾した現実の中で苦悩する主人公らの姿を描く、彼の作風に色濃く出ている。 「父の小説は、『沈黙』のキチジローに代表されるように、弱き者、社会からはじかれた者が物語の中心ですが、スコセッシ監督の映画もそう。ある種、作風が似ている感じがします。『イエスの生涯』が彼の映画人生を彩る作品の一つになってほしい」 と、スコセッシの新作に期待を寄せるのは、遠藤周作の一人息子で、フジテレビジョン副会長、そして日本民間放送連盟(民放連)会長を務める遠藤龍之介さんだ。 龍之介さんにとっても、『沈黙』には忘れられない思い出がある。学校の授業を休んで、父の長崎への取材旅行に同行したのだ。 「あれは10歳ぐらいだったかな、父から突然、『来週から5日間、新しい小説の取材に長崎に行くから、お前もついてきなさい。学校の勉強よりもはるかに勉強になるから』と命じられて」 「飛行機には乗れるし、おいしいものも食べられる。内心、シメシメという気持ちだった」長崎旅行。だが、期待していたものとはかなり違った。 出版社の編集者と長崎のキリスト教関係者と一緒で、着いた日こそ軽く観光し、夕食に名物の卓袱(しっぽく)料理を味わったものの、2日目からは外海(そとめ)、五島、平戸をハイヤーで回り、隠れキリシタンの里を精力的に訪ね回る。 1軒の家に入ると、2時間ぐらいは出てこない。その繰り返しで、その間、運転手と車内に残される。おなかはすくし、辺りは暗くなって何か悲しくなり、泣きたい気持ちになった。 たまりかねて、ある夜「来る日も来る日も、車の中に朝から晩までいるのでは、何の勉強になるのか分からない」と反発した。すると父の形相が変わった。「連れて来てやった俺の気持ちが分からないなら、今すぐ東京に帰れ !」。 「今思うに、その時の私の主張自体は、そんなに間違っていなかった。ただ、言い方が悪かった。たぶん、これはわが家に限りませんが、作家というのは自分が言葉を職業にしているので、人から言われる言葉に対して、それが家族であっても、ひどく敏感なようです」と龍之介さんは振り返る。