焼け落ちた首里城の「これから」を考える 焼失から1か月、再建へ
そうした状況の中で、当時の浦添市立図書館長の高良倉吉氏(のちに琉球大学教授を経て沖縄県副知事)らは、大正末から昭和初めに沖縄文化の調査・研究に当たった鎌倉芳太郎のコレクションに注目した。鎌倉は、戦前期に沖縄に渡り先島まで広く調査を行った琉球文化研究の第一人者だ。大正末、経済的に困窮した沖縄県が首里城正殿を解体するというのを聞きつけて中止させたことでも知られる。彼は、自ら建造物、美術品、宗教儀式などを撮影しながら、模写図や資料も大量に残していた。 そこには首里城や琉球王府に関する大量の写真と詳密な記述があった。同時に、王国時代の首里城修復に関する記録があることが確認された。そうして、完全なものではないにしても復元に活かせる資料・情報が集まった。どうしても記録のない箇所に関しては関連度が高いと思われる絵図などから推測して復元を進めたのだった。そして、沖縄が本土復帰して20年の1992年に正殿を始め北殿、南殿、各門の復元が完成した。首里城全体の復元・整備に関しては2018年度までにおよそ240億円が投じられてきた。
人々の首里城への思い
1992年に正殿の復元が完成した時の人々の反応を、私はよく覚えている。なぜなら喜びと驚きに混じって戸惑いを感じるという意見や感想を数多く聞いたからだ。言い換えれば再建までは、沖縄でも多くの人が首里城の持つ意味を自らの感覚として持っていなかったからではないか。戦前に首里に住んでいた年配の人以外は首里城についての記憶がほとんどなかったのだ。 かつての琉球王国が、中国から東南アジアを駆け巡った交易国家であったということは歴史として学んで知っている。けれども、正殿の姿を目の前にして初めて自らの歴史として掴み取ったということだったのではないだろうか。一方で、当初はその真新しいきらめきに映画のセットのようだと言う人もいた。 そうして、復元から20年あまりの時間経過でピカピカの壁面が日や風を浴びて落ち着いた色を帯びて行ったように、御城(「うぐしく」。尊敬と親しみを込めて首里城を語るときに出る言葉)は、徐々に人々の心の底に馴染んでいき、首里城の存在と沖縄独自の歴史と誇りとを合わせていくことができたのだと思う。