焼け落ちた首里城の「これから」を考える 焼失から1か月、再建へ
その第二尚氏王統の尚真王が、各地にいた豪族を首里城周辺に集めて住まわせる中央集権体制を整えた。15世紀末から16世初頭のことである。そのために首里城は、周囲の街区整備とセットで大規模な改修が行われた。巨大な城壁に貯水の役割を担わせると同時に、城の北東側に龍譚池(りゅうたんいけ)、円鑑池(えんかんち)などを配置して人口増に伴う水需要に対応させた。そうした改修と整備を進めつつ、宮古、八重山から奄美までを版図に収めて琉球王国という一大海洋国家を完成させたのだ。
伝来の歌謡集「おもろさうし」にも登場
16世紀から17世紀初頭にかけて編さんされた王国の歴史などを伝える歌謡集「おもろさうし」に、その頃の首里城の姿を伝える歌がある。 巻の十三-756に「しゅりもり(首里杜)、くすく(城)、なかへきよら(中辺清ら)うくすく(御城)、たりしよ、また、かみしも(上下)とよめ」とある。現代訳では、「首里の杜の、中空に浮かぶ城。その御城の尊く美しい様子はすべての人々の中で響いていることよ」となる。尚真王時代の首里城の壮麗さがうかがえる。 その王国の権威を国内外に示す首里城正殿は、その後戦火などで数回焼失し、1715年に再建されたものが1945年まで存在した。それも、沖縄戦で首里城直下に日本軍の長大な司令部壕があったために、連合軍の激しい艦砲射撃と空襲を受けて首里城は瓦礫と化した。
手探りで行われた27年前の復元
戦後、首里城跡には琉球大学のキャンパスが長らくあった。1992年に今回焼失した正殿などが建てられたが、その復元作業はどのように進められたのだろうか。 沖縄が本土復帰を果たした翌年(1973年)に屋良朝苗知事を会長に「首里城復元期成会」が発足、復元に向けて足を踏み出した。そして、琉球大学移転後の1986年に首里城復元を国の直轄事業として進めることが正式に決まった。しかし、復元には多くの課題があった。首里城は、歴史、建築、土木、工芸の集積物であるからだ。 復元に必要な資料や絵図、関連の文書などの多くは沖縄戦で失われ、残ったものも所在が不明だったり、分散したりしていた。そのため、昭和初期の写真やごく限られた記述しかないと思われていた。特に正殿の内部がどうなっているのかはほとんど分からなかった。