焼け落ちた首里城の「これから」を考える 焼失から1か月、再建へ
沖縄県那覇市にある首里城が猛火に包まれたのが10月31日未明。あの映像は多くの人の脳裏に焼き付いたのではないだろうか。最大の建築物である正殿、さらに隣接する北殿、南殿は文字通り灰燼に帰した。城内で保管・展示されていた琉球王国時代(15~19世紀)の絵画や漆器、紅型の染織などおよそ1500点のうち400点あまりが焼失したとされる。太平洋戦争中の沖縄戦を含め、過去に何度も焼失しては再建されてきた首里城だが、今回はどうなるのだろうか。首里城の「これから」を考えた。
私は大学教員として大学院生らとともに11月上旬に沖縄へ行った。火災前に計画していた視察だったが、ちょうど「あの日」から5日後にあたった。まず首里城を訪ねてみたが、まだ現場検証が続いていて、正殿に向かう手前にある守礼門(しゅれいもん)を抜けた歓会門までしか行くことができなかった。普段なら観光客であふれているのだが、警備員以外誰もいなかった。いずれにしても私自身にとって、首里城が焼け落ちたことは大きな衝撃だった。 というのも1990年から94年まで首里城近くの首里金城町に住み、NHK沖縄放送局のディレクターとして首里城正殿復元の映像記録を残すためにしばしば建築現場に入って撮影し、琉球王国や首里城に関する番組をいくつも制作していたからだ。私生活でも幼い長女を連れて首里城前の芝生広場によく出かけたものだった。
この広場は娘のお気に入りで休日は早朝からせがまれて散歩に行った。首里城南側の高い石垣の脇を歩いて首里城公園に入り、なだらかな芝生を登っていくと朱塗りの正殿が屋根から徐々に見えてくる。壮大で気品があり、また唐風と和風が絶妙に組み合わされながら、琉球独自の世界を表す。国内外のどんな歴史的建造物にもないユニークさだ。
海洋交易国家の象徴だった首里城
首里城の歴史を振り返る。1429年、沖縄本島南部の豪族を示す「佐敷按司(さしきあんじ)」の位置にいた尚巴志(しょうはし)が、戦国時代の状態にあった琉球を統一し、琉球王国を建てた。その尚巴志が、拠点としたのが後に首里城と呼ばれるようになる首里の城(グスク)だ。