【にしたんクリニック・西村誠司】生活保護を受けていた少年は、いかに30億の豪邸を持つまでに成り上がったのか?
給食費が払えない──。生活保護の家庭で育った少年時代
「私が幼稚園児の頃に父が病気になり、それまで営んでいた焼き鳥屋を手放して、うちの家は生活保護を受けるようになりました。私は周りの友達のように、親におもちゃを買ってもらうなんてことはありえませんでしたから、中学生になってすぐに新聞配達を始めました。欲しいものがあれば自分で稼いだ金で買うと決めて、13歳から今まで、私はずっと働いているんですよ」 西村家が暮らした愛知県は当時、1月にもなれば、ほとんど毎日雪が降った。そんななかでも、西村少年は毎朝自転車を漕いで新聞を配り続けた。たとえ貧しくても、両親は「そのお金は自分で使いなさい」と、西村氏の稼ぎを受け取ることはなかった。 「せいぜい月2万円程度の稼ぎです。私はそれをコツコツ貯金しました。大学生になってからも家庭教師などのバイトで稼いで、21歳の頃には200万円以上の貯金ができていました。 私はよく『お金持ちになる秘訣を教えてください』と聞かれます。でもそんな秘訣はどこにもない。コツコツやっていく。ただそれだけなんです。1円の銭勘定ができない人に、1億円の勘定なんてできない。なにかで一気に100万円稼ぐ一攫千金を狙うより、毎月少しずつ積み立てていく。そこからがスタートだと思うんです。13歳から働いていた私は、今でもそう考えています」 小学生時代は、生活保護ゆえ給食費を払うことができず、学校では西村少年にだけ給食費を入れる封筒が配られなかった。 「なんで西村にだけ配られないんだって、周りの生徒からしたら思うでしょう。だから母親が先生に『空で出すから、封筒だけ配ってくれないか』とお願いしたんです。 切なかったですけど、でも、暮らし自体は悲壮感が漂うようなものではありませんでした。両親は僕を愛してくれましたし、母はとても優しかった。両親から受けた人としての温かさみたいなもの、その感覚は今も私のなかにあります。両親ともに中卒で、僕に『勉強しなさい』なんて言ったことはなかったですが、だからこそ私は自分で進んで勉強するようになりました。中学では成績がオール5だったんですよ。でも高校は県内トップクラスの学校に進学したので、ついていくのが大変でしたが(笑)」