『万葉集』と「伊勢神宮」・「夏目漱石」と「洋風建築」 二つのセットが語るもの
新元号「令和」が発表されてから、典拠となった奈良時代に成立した『万葉集』に関連する書籍が売れているようです。また、三重県の発表によると、10連休となったゴールデンウイーク中に伊勢神宮を訪れた人は昨年の2倍以上となっていて、これも改元の効果といえそうです。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「『万葉集』と「伊勢神宮」を一つのセットとして考えてきた」といいます。どういうことでしょうか? 若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
見えない神聖
白木の鳥居をくぐる。白木の橋をわたる。五十鈴川(いすずがわ)の清流に沿って進めば、深い森の静謐に導かれ、誰もがそこを大切に守られた「神域」であると認識する。伊勢神宮だ。ローマ(バチカン市国)のサン・ピエトロ寺院やイスタンブールのブルー・モスクなど、絢爛たる建築とは異なる自然な荘厳であり、しかもヒマラヤの山塊やグランドキャニオンといった野生の霊性とも異なる文化的な自然である。日本独特の「霊場」であろう。 実のところ、外宮にしても内宮にしても、神殿(本殿)そのものは幾重にも囲まれて直接見ることはできない。しかし本殿に似たつくりの別宮もあり、神宮の森全体の霊気を浴びることによって、塀越しの本殿参拝を終えれば、すっかり見たような気になってしまうのだ。いわば「見えない神聖」である。 新しい元号「令和」は『万葉集』から取られた。 上皇は退位に当たって「伊勢神宮」に報告された。 僕はこの『万葉集』と「伊勢神宮」を、思想的に一つのセットとして考えてきたので、改元に当たってこの二つが結びついたことを面白く感じた。そして、明治生まれの文豪「夏目漱石」と「洋風建築」にも、似たようなセットとしての意味を汲み取っている。日本文化には、文学と建築が一体になって語りかける「何物か」があるのだ。
『万葉集』と「伊勢神宮」は日本古来の魂
『万葉集』初期の盛期は持統天皇の御代であり、「歌聖」柿本人麻呂が活躍した。この時代、日本に初めて都市らしい都市(藤原京・平城京)ができ、壮麗な仏教建築が建ち並んだにもかかわらず、万葉の歌には仏教寺院がほとんど登場しない。都市の賑わいを詠む歌もなく、万葉の空間は、昔ながらの山と川、草と花、まことに日本国らしい自然と日本人らしい直情に満ちているのだ。そのことから僕は『万葉集』は「反文明の歌集」だと書いた。万葉仮名という、漢字の意味を消す記述法による「無文字文化の魂の叫び」だとも書いた*1。 伊勢神宮についても前に書いているが、ここで少しおさらいしたい*2。 本殿の建築としての特徴は、白木、茅葺き、掘立柱という、日本古来の素朴な様式であることだ。しかしそれが粗末には見えず、むしろ素朴であるがゆえの崇高さが感じられ、日本的美意識の極致であると思わされる。 そして何よりも、二十年ごとに敷地を隣に移して建て替える「式年遷宮」という制度が世界でも類例のないものだ。現在はその理由として、技術の伝承とか、木材を末社で再利用するからエコだとか説明しているが、古代人はそういう考え方はしないだろう。 伊勢神宮が現在のように整備されたのは天武帝のときで、最初の遷宮は持統帝のとき、まさに万葉初期の盛期と重なる仏教建築時代である。 中国から来た仏教建築様式は、瓦葺きの壮麗な屋根、堂々たる朱塗りの柱、高い基壇の上に建てるというもので、都市文明の象徴としての雄姿を誇るだけでなく、ほぼ永久的と思われるほどの持続性があった。本堂あるいは金堂に安置された金箔の仏像も、今思われているより一段と華やかな存在であったのだ。 その時代に天皇家の祖先神を祀る「伊勢神宮」は、中国から来た様式ではなく、日本古来の様式としたい。しかし白木、茅葺き、掘立柱では寿命が短い。そのままの様式で、仏教寺院に負けない風格と、持続性を得ることができないか――。その工夫が、あの深い森の神域とともに遷宮という制度を生んだのである。そして現実に、一千数百年にわたってそれを繰り返してきたのである。この空間の蘇生感こそが、そのまま日本文化の特質となっている。 またそれまでの日本は、ちょうど二十年程度で都を移す「遷都」を繰り返していたのだが、伊勢神宮の遷宮が始まってからは都(平城京)が動かなくなる。つまり遷宮は遷都の代替という考え方も成り立つ。