『万葉集』と「伊勢神宮」・「夏目漱石」と「洋風建築」 二つのセットが語るもの
文学と建築のセットで見えてくるもの
天武帝とその后であった持統帝の二代において日本は国家体制を固めた。世は、文字のない牧歌的な社会から、文字による文明的な社会へと激変したのである。 この転換期に日本人は、『万葉集』という文学によって文字以前からの文化をつなぎとめ、「伊勢神宮」という建築によって都市と建築の蘇生感を維持しようとしたのだ。つまりこのセットは、反文字、反仏教、反都市の文化であり、国際的な文明に対する国粋的な抵抗の文化である。前にも述べた「都市化への反力」である。 今われわれは、何気なく文字を使い、寺院にお参りし、洋服を着て、高層ビルの都市に生きている。しかしそれらはもともとすべて外来であり、この列島に新しい文明として現れたもので、日本文化はその外来文明の推力と風土的な反力との葛藤の中に育ってきたのである。われわれの精神は深いところで、その葛藤の履歴を感じているはずだ。 建築と文学は、一見かけ離れた存在であるが、実は両者とも、その社会のその時代の国民一般の精神の上に成立するものである。前者は石や木によって、後者は言葉によって、時代精神を構築するのだ。しかしそれは逆方向であることが多い。どちらかといえば、建築は時代を前に推し進める力(推力)の上にあり、文学はその慣性力として後ろに引く力(反力)の上にある。ここで論じている伊勢神宮は特殊な例である。 そして、日本文化のあり方を決定的にしたもう一つの時代、明治期の文学と建築にも、似たような力学を感じることができるのだ。 建築学は日本では工学に属するため、その専門家は文学に縁がない。また文学者にとっても建築を一から勉強することは難しい。だがその二つを結びつけると、けっこう面白いものが、どちらか一方では見えないものが見えてくるのである。
明治における都市化の反力
夏目漱石は、明治維新の前年に生まれ大正五年に没した、つまり日本に洋風建築が次々と建てられる時代に生きた作家で、しかも彼は建築家になろうとしたことがある。そしてロンドンに二年間留学し、この時代に、もっともよく西洋建築を知る作家であった。ロンドン時代の日記を調べると、壮麗なグリークカラム(ギリシャ風列柱)の建ち並ぶ劇場や美術館に足繁く通ったことがよく分かる。 そんなわけで漱石の、特に前半期の小説には洋風建築がよく登場する。そしてそれが特定のキャラクターに結びついているのだ。 『坊っちゃん』のマドンナ、『虞美人草』の藤尾、『三四郎』の美禰子といったヒロインは、みな、美貌でしかも驕慢な、男を手玉にとる性格であり、主人公はその女性に惹かれはするものの結ばれることはない、いわば棘をもった薔薇のような、近くて遠い存在である。彼女たちは共通して、豪華な洋風建築におかれている(マドンナはやや特殊)。 これに対して、『吾輩は猫である』の苦沙弥、『草枕』の「余」、『三四郎』の広田などは、いずれもどこか時勢(文明開化という浮薄)に反発し、超然とした姿勢を保つ壮年の知識人で、彼らは決まって、古さびた和風建築の住人である。江藤淳はこれを南画的世界と呼び「漱石の最も内奥の隠れ家」と表現した。小説の中でこの「洋風建築」と「和風建築」が対立構造をなしているのだ*3。 漱石にとって、また坊っちゃんや三四郎といった若い主人公と読者層にとって、洋風建築と西洋文化に染まった女性は、華やかな魅力をもつと同時に、手厳しく拒絶される可能性をもった危険な存在でもあり、むしろ和風建築とその住人に安心を覚える。 つまり明治の洋風建築は万葉の時代の仏教建築側であり、「漱石」と「洋風建築」は『万葉集』と「伊勢神宮」の「逆セット」というべきであろう。