〈甲子園〉J-POP調「至学館高校」の校歌は、なぜ昔ながらの「だみ声」で合唱されるのか?――「校歌らしさ」の謎を解く
「いまどき校歌」の代表
実際の制作プロセスのなかで、誰がこのような方向づけを主導していったのかというようなことは調べてみないとわかりませんが、外部からの要請にせよ「自主規制」にせよ、何らかの形で、新しい校歌を従来の「校歌らしさ」の方向へと引き寄せてゆくような力学が作用したことはたしかだろうと思います。 少し局面は違いますが、「いまどき校歌」の代表格とされる至学館高校の校歌のケースにも似たようなところがみられます。こちらは歌そのものはもろにJ‐POP調のものですので、その点は富里高校のケースとはだいぶ違います。 実はこの曲は最初から校歌として作られたわけではなく、同校の系列の大学にかつて籍を置いていたレスリングの伊調千春選手が2004(平成16)年のアテネ五輪で惜しくも銀メダルに終わった際に、さらに金メダルを目指す同選手を励ますために作られたものが後になって校歌に転用されたという来歴がありました。
選手たちが「放歌高吟」
歌詞をそのつもりで見直してみると、たしかに背景にあるストーリー性が感じられてきます。《夢追人》というタイトルでCDも出ていますが、シンガーソングライターとしても知られるKOKIAがつぶやくように歌っているのを聴いていると、そもそもこういう曲を皆で合唱するなどという校歌としての使い方ができるのかと思ってしまうくらいです。 ところがこれが皆で歌えるのです。YouTubeに、夏の甲子園大会の予選で勝ち、甲子園出場を決めた試合の後に校歌が流され、選手たちもスタンドも一緒になってこれを歌っている映像があったので見てみたのですが、普通の校歌と同じように、選手たちがだみ声を張り上げて「放歌高吟」しているのです。 もちろん、そんなものは「芸術的価値」という観点から高く評価できるようなものではないという声は出てくるでしょう。「作品を台無しにしてしまった」という嘆きの声もあるかもしれません。しかしそれにもかかわらず、否むしろそのような歌い方をしているからこそ、「校歌」としてまさに機能しているのです。