創業期から沿線開発に熱心でビジネス意識に富んだ「小田急電鉄」。沿線環境の豊かさに加えて、箱根観光の楽しさも活動の重要な要素に
◆他社との競争 小田急の存在感を一気に高めたのは、1957(昭和32)年6月のロマンスカーSE形の登場である。 箱根観光のための、特別な速達型車両として注目を集めた。 また、連接車(れんせつしゃ)(複数の車体をつなぎ、一体のものとして運用する車両)の8両編成という、画期的な車両も高く評価された。 この車両を導入することで、小田急のイメージは非常に高いものとなる。その後、ロマンスカーは優(すぐ)れた私鉄特急として、名声を保ち続けている。 豊かさにあふれた沿線、走るのはロマンスカー。小田急はイメージづくりに大成功し、戦前からつちかってきた鉄道を中心とする複合ビジネス企業としてのノウハウを生かし、沿線をさらに発展させた。 「関東における沿線開発のノウハウは、東急グループが随一(ずいいち)だ」とは一般的によくいわれる話であるが、小田急は箱根や江ノ島といった観光地が目的地として存在する。 豊かさにあふれる地域と、その先に観光地があるという特性から、都心へ向かうだけではない需要もあり、その特性を生かした企業活動を行なっている。 また、他社との競争を制し、都市鉄道と観光輸送を両立させているということも特記すべきだろう。 箱根では小田急と東急が手を組み、進出してきた西武グループと観光開発などの競争を行なった。 その熾烈(しれつ)さは、作家の獅子文六(ししぶんろく)が『箱根山』という小説にしたほどである。
◆新しい街が多い 小田急線沿線の基本的な特徴としては、沿線には高学歴・高所得層が多く、しかも近年完成した複々線化の影響もあって、鉄道の利便性まで向上するという、恵まれたポテンシャルを持っていることだ。 一方、もともとは農村部で、そこを開発して住宅地にしていったという経緯からか、比較的新しい街が多い。 開業は昭和に入ってからの鉄道であり、そこから沿線がつくられていった。 関東大震災後に多くの人が郊外に移り住むなかで、早く移り住んだ人は東急沿線に移住し、遅く移り住んだ人は小田急沿線にやってきたというところがある。 現在は、経済的にある程度裕福な人たち、社会的地位が高い人たちをターゲットにした沿線であり、その状況が現在も続いている。 また、教育面で学力競争よりも個性の尊重を大切にしているように感じられるのは、自由な校風で知られる玉川学園や和光学園が沿線にあるからだろう。 豊かな人たちがのびのびと暮らし、箱根観光などをときどき楽しむというのが、小田急沿線の特徴である。 ※本稿は、『関東の私鉄沿線格差: 東急 東武 小田急 京王 西武 京急 京成 相鉄』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
小林拓矢
【関連記事】
- いっけん地味でもあなどれない実力「京王電鉄」。雰囲気の違う系統が、同じ沿線になった理由とは…その歴史を太平洋戦争まで遡る
- 京成電鉄沿線は都心から離れていくほど利用者が多く、豊かさをめぐる指標も高い数字が…その魅力と実力
- 東急のようなブランド力や一体感が希薄な「西武鉄道」。ちぐはぐな開発が行われた原因は創業者一族の折り合いの悪さにあった?
- なぜ西武新宿駅はJR新宿駅からあんなに遠い? かつて存在した「隣接ホーム」計画とは? 延線が2度も失敗したワケと再び動き出した新計画
- なぜ「京成」の浅草延長線は当初認められなかった?ライバル「東武」の存在に東京市議会の反発、贈収賄疑惑…37年を要した<京成の浅草乗り入れ>実現までの歴史