初代タイガーマスク・佐山聡が残した偉業の数々 元東スポ記者が「手作りマスク」、総合格闘技の取り組みの裏側を明かした
プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(10) 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。 【写真】ウナギ・サヤカ フォトギャラリー そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第10回は、1980年代に突如リングに現れた初代タイガーマスク。たった一夜にして子供たちのヒーローになり、新日本プロレスの『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)が放送されていた金曜日の夜8時には老若男女がテレビの前で彼の登場を待っていた。プロレスの概念を覆したタイガーマスクについて聞いた。 【1試合のみの約束だったデビュー戦】 ――1981年4月23日、東京・蔵前国技館のリングに正体不明のマスクマンが登場。イギリスの"爆弾貴公子"ダイナマイト・キッドと対戦したのが初代タイガーマスク、佐山聡さんでした。 柴田:あのデビュー戦に被ったマスクはちょっと小さくて、ピタッと顔に張りついていました。実は、新日本プロレスの女性スタッフが何人かで手作りしたマスクだったんです。 ――スタッフの手作りだったんですか!? 柴田:佐山さんは1試合だけのつもりでイギリスから一時帰国したので、スタッフが材料を持ち寄って急ごしらえしたんです。でも、爆発的な人気が出た。新日本としても予想外だったんじゃないかな。 アニメ『タイガーマスク二世』(テレビ朝日系)も大ヒットしたので、テレビ朝日や原作の梶原一騎先生との関係もあって、タイガーマスクを続けざるを得なくなった。ただ、佐山さんはあまり乗り気ではなかったと思いますよ。
――タイガーマスクとしてマスクを被ることを、ですか? 柴田:もともと、佐山さんはマスクマンになりたくてプロレスラーになったわけじゃないですから。佐山さんが新日本に入門したのは1975年5月で、翌年にアントニオ猪木さんの付き人になった。「プロレスは最強の格闘技」とする猪木さんの影響もあって、キックボクシングの「目白ジム」に入門して、新日本と並行で汗を流していました。 1980年10月にはイギリスでデビュー。ブルース・リーの親戚という設定で「サミー・リー」というリングネームで活躍しました。飛び技や蹴り技で人気も高かったですし、当時チャンピオンだったマーク・ロコへの挑戦も決まっていました。 ――マーク・ロコ選手は、のちに初代ブラック・タイガーとして新日本に参戦しましたね。 柴田:佐山さんは、海外で人気が出たのに、マスクを被って日本で戦うことに意味を見出せなかった。だけど、「1試合だけならいい」と虎のマスクを被って、蔵前国技館のリングに登場したんでしょう。 あとで佐山さん本人に聞いた話ですけど、「マスクを被っちゃえば、自分はどうなっているのかわからないし、他人からどのように見えているのかは気にならない。ただ、視界が悪くて泣きそうになったよ(苦笑)」と振り返っていました。マスク作りを手伝った関係者は「耳がずれたり、小さくてごめんなさい」と謝ったそうなんですが、佐山さんは「いやいや、大丈夫ですよ。ただ、見えなかったことがつらかったです」と答えたらしいです。 【「マスク」ビジネスが生まれるきっかけに】 ――そもそも、なぜマスクは手作りになったんでしょうか? 柴田:それまで、日本にマスクを専門に作る職人がいなかったんです。日本人のマスクマンは少なかったですし。服飾関係の会社が片手間でやることはあったかもしれませんね。 タイガーマスクも1度きりの計画でしたからね。それが、人気大爆発で継続参戦することになったから、「さすがにちゃんとしたものを作ろう」ってことで、玩具メーカーの「ポピー」に依頼したんです。 ――バンダイナムコグループの会社でしたね。懐かしい名前です。 柴田:マスクだけじゃなくて、コスチュームも製作していました。それ以降、いろんなマスク業者が誕生しました。ある意味、ひとつの革命ですよ。新たなビジネスが生まれ、プロレスのファイトスタイルも変化していきました。