「ネオン」の灯りはなぜ人を惹きつけるのか…札幌から那覇まで日本全国の夜の街を歩いてわかったこと
歌舞伎町のネオンの記憶
バブル崩壊後もネオンは変わらず、主な広告照明として使用されてきたが、2000年代初頭に誕生したLEDの普及によって、急速にネオン需要は縮小していった。そのネオン減少の流れは、震災後の電力不足を端緒とした政府によるLED普及の推進によって、更に加速していった。 2011年の震災後は、ネオンは敬遠され、新規の案件は3~4年はほぼ全くなかった、という話を多くのネオン関連の方々から聞いた。仕事の激減により、職人の数も減り続けた。聞いたところでは、『日本サイン協会』に加盟するサイン、ディスプレイ関連会社全国500社の内、ネオン職人を抱える会社は現在は50社ほどだという。かつて3社あった、ネオン管製造メーカーも国内で一社のみとなっている。今は企業による大規模ネオンの需要はほぼ皆無で、注文のほとんどは小規模な店舗の店頭や店内を飾る小ぶりなネオンがほとんどだと聞く。 僕がネオンについての話を初めて聞いたのは2019年末のことだった。LEDの普及によって、日本中の街からネオンが無くなっている、というのだった。一度一緒に写真集を作った編集者から、今度はネオンの本を作りませんか?と声をかけられたのだった。 1980年代後半、高校2年生だった頃、毎週末、僕はバイトで知り合った他校の友人たちと、新宿のディスコに集まった。練馬の自宅から親の小言を振り切って西武線に飛び乗り、西武新宿駅から喧騒あふれる歌舞伎町一番街のアーチを潜ると、光と音の洪水が渦のように向かってきた。 タバコや飲食店の揚げ物やアルコールのすえた匂いが立ち込め、爆音で流れるお店から漏れる音楽や、客を誘う宣伝文句、呼び込みキャッチのお兄さんの脅すような猫撫で声、あちこちから酔客の歌うような、どなるような大声が聞こえ、チカチカと至るところで左から右に、上から下に明滅するさまざまな色が混ざり合うネオンサインが、僕の知らない世界への扉を示している気がした。会員になりキーホルダーを提示すると、19時前入店だと、たしか1000円か1500円でラストまで店内に居座ることが出来た。フリードリンク、フリーフードだった新宿コマ劇場横の雑居ビルにあったディスコ『NEW YORK NEW YORK』の店内にも、ネオンが点灯していた覚えがある。