梅田のランドマーク・大阪新阪急ホテル、最後の1日…約100人から大きな拍手で60年の歴史に幕
◆ 閉館を惜しむ人たちの寄せ書きと、館内の貴重な資料ともにホテルの歴史を振り返る
結婚と言えば、「寄せ書きコーナー」にも多数のメッセージが寄せられている。「1996年にチャペルで結婚式をあげ、ラストデイに宿泊に来ました。またいつか再開してくださるのを楽しみにしています」「42年前に結婚式をしました。とっても幸せなお式でした。今でも仲良く幸せです」「妻とはじめてお見合いしたのがブリアンでした。最後に子供たちと一緒にブリアンでお茶をして、想い出作りができました」等、お見合いや結婚式の思い出を書き残している人がとても多く、同ホテルがたくさんの人の華やかな「ハレ」の場であったことを感じさせる。 また「小さいとき、誕生日に家族でオリンピアに来て食事するのが楽しみでした」「オリンピアで家族みんなおなかいっぱい食べました! 最高!」「最後の日に家族でオリンピアで食事をしました。ホテルもオリンピアも再オープンしてください、待っています」など、バイキングレストラン「オリンピア」での思い出や復活希望のメッセージも多数寄せられており、ファミリーを中心に根強い人気を感じさせた。1964年の開業当時、大阪では「バイキング」形式は大変珍しく、爆発的な人気となったそう。現在の関西でも多数ある「ホテルビュッフェ」の先駆け的存在だったようだ。
◆ 「宝塚歌劇」との関係も深く…
さらに「宝塚ファンになって20年、新阪急ホテルも夢の世界の一部でした。今までありがとう」「大劇場の緞帳が大好きでした」「大好きだった峰さを理さん、南風まいさんのディナーショーにきたのがはじめてで、忘れられません」など「宝塚歌劇」の思い出を寄せた人も多い。 「新阪急ホテル25年史」によると、鳳蘭ら多くのタカラジェンヌがディナーショーを同ホテルで行っただけでなく、1964年の開業パーティーで天津乙女さん(当時宝塚歌劇団理事)が「三番曳」を舞い、またその後も25周年の記念式典で松本悠里さん(当時宝塚歌劇団)が日舞を披露した、という記録が残っており、歌劇との関係も非常に深いホテルでもあった。 同ホテルが開業した1964年当時、宿泊は1800円、バイキングはひとり1000円。ホテル周辺に高い建物はなく、今の梅田の街も全く違う景色だった。今後「阪急梅田駅」一帯は大規模な再開発が予定されており、60年間たくさんの人をもてなしてきた同ホテルの建物は1969年開業の「阪急三番街」、1972年開業の「阪急ターミナルビル」などとともに、取り壊しとなる見込み。なお宿泊に特化した「新阪急ホテルアネックス」の営業は続く。 ひとつの時代が終わり、さらに大きく変わっていく梅田の「一等地」の景色。多くの人に愛された同ホテルの思い出とともに、今後新しく生まれ変わる「阪急梅田駅」界隈の未来に期待したい。