改暦に挑んだ秀才の執念――和算家・渋川春海(1639~1715)
鎖国下の江戸時代、日本独自の数学文化「和算」が華ひらく。天才和算家・関孝和のベルヌーイ数発見のような、世界にさきがけた業績がなぜ生み出されたのか。『江戸の天才数学者:世界を驚かせた和算家たち』(鳴海風著/新潮選書)から一部を抜粋・再編集して江戸流イノベーションの謎に迫る。 ***
渋川春海の誕生
渋川春海は、寛永16年(1639)閏11月3日、初代安井算哲(さんてつ)の長男として、京都四条室町松原の屋敷で生まれた。幼名は六蔵という。父が50歳のときの子だった。 安井家の先祖は清和源氏の畠山氏に発し、満安が河内国渋川郡を領したことから渋川姓を名乗り、その孫の光重が播磨国安井郷を領してからは安井を名乗っていた。 春海という名は、『伊勢物語』にある、「雁鳴きて 菊の花咲く 秋はあれど 春の海べに すみよしの浜」という歌からとったものだという。 春海は幼い頃から利発で向学心が旺盛だった。特に神道に関しては、江戸に定住する以前から、生涯を通じてその姿勢は変わらなかった。京都の山崎闇斎(あんさい)について垂加神道を、また陰陽頭・土御門泰福(つちみかど・やすとみ)について土御門神道を、他に中納言・正親町公通(おおぎまち・きんみち)、伊勢の神主・荒木田経晃(つねてる)、さらに忌部(いんべ)、卜部(うらべ)、吉川からも学んで神道の奥義を究めようとした。 このことは、当時神道を志していた水戸光圀、保科正之の知遇を得、のちに改暦に際して強力な支援を得るきっかけになった。 春海は、天文暦学についても、若いころに、京都の隠者・松田順承(じゅんしょう)から宣明暦(せんみょうれき)を、同じく京都の医師・岡野井玄貞(げんてい)から授時暦(じゅじれき)を学んでいる。京都は和算発祥の地だが、天文暦学もここから発展した。春海は、江戸で暮らすようになってからも、松田と共著を刊行している。また、江戸で数学塾を開いていた池田昌意(まさおき)からも、春海は暦理論を学んでいたとされるが、これは疑わしいようである。