改暦に挑んだ秀才の執念――和算家・渋川春海(1639~1715)
太陰太陽暦とは
安井家は、本因坊家、林家、井上家に並ぶ碁所と呼ばれた碁師の家で、渋川晴海もまた碁打ちであったが、ここでは天文暦学者としての春海の人生を振り返っていく。 しかしその前に、なぜ和算家をテーマにした本書が天文暦学者である春海を扱うのか、説明しておかなくてはならない。結論からいえば、天体観測にも、また観測結果と理論に基づく暦の計算にも、高度な数学の知識が必要不可欠であり、当時、一流の天文暦学者とみなされた人物は、すべて一流の和算家だったからだ。 暦法とは、いくつかの方程式の組み合わせである。春海の時代の暦法は、貞観4年(862)に唐から輸入した宣明暦というもので、京都朝廷の陰陽寮の管轄の下、およそ八百年もの間ずっと使い続けていたのである。そして、八百年ぶりの改暦を成し遂げた春海は、そういう意味では、超一流の和算家であった。
改暦の失敗
春海の天文暦学の特徴は、実地天文学にあったといえる。新たに理論を確立するのではなく、中国から伝わってきた理論を、実際に天体観測をすることによって確かめ、誤りがあれば正していく方法である。 万治二年(1659)、21歳のとき、春海は山陰、山陽、四国を訪れて、各地の緯度測定を行ったとされている。当時の緯度は、北極星の地平線からの高度で、北極出地之度数あるいは単純に北極出地と呼んでいた。 また春海は、表を立てて日影を測り、冬至となる日時つまり冬至点を求めたという。表というのは別名圭表(けいひょう、西洋ではノーモン)のことで、太陽が南中(子午線を通過)したときの日影の長さを測る道具である。春海は、銅製で高さ8寸の、小型の圭表を用いた。 太陰太陽暦では、太陽年を冬至点から冬至点までの時間で決めていた。その冬至点を決定するためには、冬至点前後いくつかの日影の長さを圭表で測定し、計算により求める。これは祖沖之(そちゅうし)の方法と呼ばれていた。 さらに春海は、渾天儀(こんてんぎ)や天球儀、地球儀も製作した。春海の作った渾天儀は日光東照宮に、天球儀、地球儀は国立科学博物館や伊勢神宮徴古館(ちょうこかん)に残っている。 太陰太陽暦では、たとえば天文常数である太陽年を何日にするかで、暦法の精度は決まってしまう。唐の徐昴(じょこう)が作った宣明暦では、太陽年は365.2446日だった。正確な太陽年との差は、プラス0.0024日である。この宣明暦が、およそ八百年間使われていたため、その差はほぼプラス2日(つまり2日の遅れ)になっていたのである。 春海は、圭表による観測結果から宣明暦が2日遅れていることや、元の郭守敬(かくしゅけい)が作った授時暦では、太陽年が365.2425日で、ずっと正確であることを確かめていた。 寛文13年(1673)6月、春海は満を持して改暦の上表をした。『欽請改暦表(謹んで改暦を請うの表)』を朝廷に献上したのである。前年の12月18日に、改暦に関心の高かった保科正之が亡くなっていたが、正之は時の老中に「春海に改暦をやらせること」と遺言していたから、これは幕府の公式提案でもあった。 内容は、唐から輸入した宣明暦が実際の天体現象に対して2日遅れていることを示した上で、その後3年分の日月食を、宣明暦、元の授時暦、明の大統暦(だいとうれき)で計算して比較した『蝕考』を添えてあった。 大統暦は明の時代(1368─1644)の暦法である。学問的には大統暦は授時暦から消長法(天文常数が時とともに変化するとして暦計算に入れる方法)を省略しただけで計算結果はほぼ同じだった。ここで春海が大統暦を持ち出したのは、明の支配を受けていた朝鮮からの通信使が大統暦を使用していたからだろう。互いの暦日が相違していれば、外交においては当然不都合なことが多い。 いずれにせよ春海は、あえて三つの暦法を並べ、授時暦が優れていることを示そうとした。何度も何度も精度を確かめた授時暦が採用されることに、春海は絶対の自信があったのである。 ところが、延宝3年(1675)5月の二分半の日食は、宣明暦は予測できたのに、授時暦や大統暦では予測できなかったのである。春海にはその原因が分からなかった。幕府の最高権力者、大老酒井忠清にまで「春海のいうことも合うこともあれば合わないこともあるな」といわれる始末だった。