改暦に挑んだ秀才の執念――和算家・渋川春海(1639~1715)
「里差」に着眼
自信をもって臨んだ改暦の上表の失敗に、春海は少なからぬ衝撃を受けたはずだ。しかし、既に碁師としての限界を感じていた春海には、改暦を成し遂げる以外に自らの生きる道は考えられなかった。 延宝5年(1677)には、神武天皇以来の二千年をこえる暦本『日本長暦』の草案を作成した。毎月朔日の干支、月の大小、閏月の有無などを計算して整理したのである。また、以前にも増して、天体観測に力を入れた。麻布の自宅で、冬至点だけでなく、春分点、秋分点も測定した。そして、実際の観測結果と授時暦が、近日点(地球が太陽に最も接近する点)と冬至点では6度ずれていることも認識した。いずれも膨大な手間を要する執念の仕事であった。 さらに、中国ではなく日本で観測される星図『天文分野之図』を完成させた。この図は、春海にある着眼を与えた。授時暦は元の首都大都(現在の北京の位置)を基準にして作られたものである。授時暦をそのまま使えば、日本との「里差」(経度差)は時間差となって現れる。地球儀を作ったことのある春海は、この当然のことに気が付いた。 こうなると、延宝3年の日食についても、授時暦が予測できなかったのではなく、中国では観測できない日食だったに違いないと春海は思った。春海は、元の授時暦が京都での時刻に合うように、先ず「里差」を調整しなければならないと考えた。 春海が参照したのは、明の時代に出版された『坤輿萬國全圖(こんよばんこくぜんず)』という世界地図だった。明の首都北京は京師(けいし)と記されており、ここが、授時暦の作られた元の時代の首都大都だった。一方、日本列島には京都らしき名称は見当たらないが、春海はおよその位置を見定めて、経度差を約20度と決定した。 こうして、「里差」を考慮し、すべての計算をやり直し、8年の歳月をかけて完成させた日本のための暦法・大和暦で、2度目の改暦の上表をする。天和3年(1683)11月4日、冬至の日のことであった。 興味深いことに、この年、春海は陰陽頭に就任したばかりの土御門泰福から、土御門神道の奥秘を受けている。おそらく、改暦の機会を窺っていた春海は、戦略的な思惑を持って陰陽頭である泰福に近づいていたのだろう。 そんな春海の思いが通じたのか、改暦の上表をした同じ月の16日、今度は宣明暦が間違いを犯す。頒暦(はんれき)に記載された三分半の月食が起こらなかったのである。春海の大和暦は不食としていたので、自信をもった。 改暦の機は熟した。もともと翌天和4年(1684)は甲子革令(かっしかくれい)にあたり、古来改元されることが多い年である(実際2月21日、天和から貞享に改元された)。つまり改暦をするには絶好のタイミングなのであった。 春海は『請革暦表』を朝廷に献上した。その中では、「今天文に精(くわ)しきは則(すなわ)ち陰陽頭安倍泰福、千古に踰(こ)ゆ」と記し、安倍泰福(土御門泰福のこと)をしっかり持ち上げている。