身辺整理中の森永卓郎が数千冊の本を処分した<合理的な方法>とは?「もしかしたらまた使うかも、はたぶん訪れない」
◆読まない本はどんどん捨てる もっとも普通に暮らしていればモノは増える。 体は一つしかないが、必要最低限といって服を一着しか持っていない人はまずいないだろう。 用途に合わせて、便利さを求めて、モノは自然と増えていく。暮らしというのはそういうものだ。 なかには愛着を覚えるものも出てくる。 結論を先に言えば、愛着のあるものを手放すためには執着心との戦いに打ち勝つしかないのだ。 しかし言うは易しで、執着心を手放すのは難しい。 余命宣告されている私でさえ未練たらしかった。 たとえば愛読していた本、買う時に海外から取り寄せるなど苦労した本、無理して買った高価な本や今ではもう絶版になっている本などは手放すのが忍びないのだ。
◆「もしかしたら」は訪れない もう一つ「もしかしたら、また使うかもしれない」という想いもモノを処分する際の妨げになってしまいがちだが、こちらについては、私はもとより使わなくなったものはどんどん捨てるタイプだ。 いつだったか長男が「家が狭くて置くスペースがないから実家に置かせてくれ」と言って我が家に本の詰まった幾つかの段ボール箱を持ってきたことがある。 スペースを貸すのは構わないと思ったのだが、私は長男に「棚から出して箱詰めした本を読み返すことはたぶんないから処分したらどうか」と提案した。 もしかしたらと思っても、その日はたぶん訪れない。訪れない日のために本をとっておくのは無意味だ。 しかもマンションを借りている場合などは、使わないものを置いておくスペース分の賃料も払っていることになる。 こうしたコストを考えれば、モノはどんどん捨てるに限る。 もしも必要が生じれば、その時はまた買えばいいと考えるのが得策だ。 私は研究室の本をすべて処分した直後に、1990年にジョン・K・ガルブレイスという経済学者が書いた『バブルの物語』という本を引用する必要性に迫られた。 持っていたのに早まったことをした、出版から34年も経っている本を入手するのは大変だと困惑したのだが、結局のところメルカリですぐにみつかり、500円で購入できた。 余命宣告されていようとなかろうと本に限っては捨てるの一手なのだと確信した今、手放した本に対する未練は1ミリもない。 ※本稿は、『身辺整理 ─ 死ぬまでにやること』(興陽館)の一部を再編集したものです。
森永卓郎
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