能登半島地震の体験と珠洲原発の恐怖 落合誓子[ノンフィクションライター/珠洲市在住]
珠洲市の被害の概要は…
珠洲市の正式な被害状況をまとめてみた。 ▽現在の人口1万1910人(本州で2番目に小さい市) ▽全壊家屋 5329戸 ▽大・中規模半壊 事実上の取り壊し 1534戸 ▽半壊 直せても簡単ではない2281戸 ▽準半壊・一部損壊 なんとか治せる 6031戸 ▽罹災証明交付件数 1万426件 ▽死者 103人 ▽重軽傷者 249人 ▽避難者数 551人 ▽避難所数 33カ所 これが5月初旬の珠洲市の被災状況である。 4カ月が過ぎてもライフラインさえ戻らない家もかなりある。殊に液状化などが起こったエリアでは、家は立ってはいても、その地下には水が湧いてくるらしい。 珠洲市役所の程近く、市の中心市街地の真ん中でも何度も何度も掘り返しては埋め戻ししている場所があるが、そのエリアでは5カ月目に入っても上水・下水ともにいまだ戻らない。上水も下水もまるで使えない生活が4カ月を超えたのだ。 冬休みから続く学校の避難所は、4月に新学期を迎えて閉鎖されたり合併したりという情報もある中で、住んでいた家が倒壊してしまった家族はいろいろ行政の助けを受けるとしても最終的にはどこも行きようがない。そんな人が珠洲市の人口の8割近くということになる。 仮設住宅ができ始めてはいるが、こんな状況では被災者の生活が安定することはない。これが私の住む珠洲市の「今」である。
人口の8割近くの数の取り壊し予定家屋
先ほどの数字で表わしたように、人口の8割近くの数の「取り壊し予定家屋」というのは尋常ではない。それはもちろん「一人住まい」と「空き家」がいかに多かったかという地震前の現状を表わしてはいるが、もちろんそれだけではない。「いかに常軌を逸する破壊的な揺れ」であったかということでもある。 震災直後には温泉旅館の冬枯れを利用して金沢近郊の加賀温泉郷の各宿を行政が借り上げて、温泉と食事付きの「みなし避難所」を設置した。大変好評で家をなくした人たちがたくさん利用しているが、「上げ膳据え膳、温泉付き」のこの上ない環境も、長引くと「置いて出てきた壊れた家が気になったり、手持ち無沙汰で震災の喪失感が蘇り、精神的に辛さが増したり」と、当たり前のことだが、なかなか問題も多い。 さりとて、三日にあげず家に帰って片付けたり、探し物をしたりするには片道3時間以上の崩落した道路をたどる能登への「里帰り」も簡単ではない。 それに春になって観光客が増える頃になると大半の宿が本来の仕事に復帰してしまうため、被災家族の受け入れ先が減少してしまった。彼らの最終的な受け皿は仮設住宅以外にはないのかもしれない。 避難所の閉鎖や合併などが相次ぐ現状の中で、罹災証明の数が人口を追いかけている、これらの数字を考えると、少しずつ増えてきた仮設住宅もなかなか大変な競争率となることは明らかだ。しかし、さりとて被災地ではない県内の市や町に2年間はアパートを借りることができるという、行政お薦めの「みなし仮設」も、見知らぬ町に住みつくには、老人にはやはり無理が多い。たとえ近所に息子や娘がいる場所を選んで落ち着いたにしても、簡単にはいかないという話の方が実は多い。 もちろん、一生もほとんど終わりに近づいた「年寄り」よりも、これからの若い人ならどこに移り住んでも生きやすいはずだが、さりとて、子どもを連れてそこで生活するには、どこかで仕事を探す必要がある。 学校も転校させて、さて、仕事を見つけて、となると期限が切れる3年目には本当に帰ってこれるのだろうか。帰っても家自体がもう住めないのだ。職場も家も事実上なくなってしまったのだから……。 もちろん、仮設住宅も期限は同じく2年間。その頃には既に入っている人も出ていかなければならない。子どもにお金のかかる年齢の人たちは腰掛けではなくて本格的な仕事を探さなければならない。さもなくば、行政からの生活の援助が切れたあと、どのようにして生活を続けていくのだろうか。 彼らは青年期に、もともと故郷に住むことを選んで決めた人たちなのだ。しかし、どんなに帰りたくても二度と故郷に戻ってくることはできないかもしれない。いや、それどころか、家が倒壊した人々のために、さまざまに保証されているはずの「現時点の行政からの補助」自体が事務手続きの煩雑さのためか、いつまでたっても、1円の援助もまだ受けられていないという話もある。半年待って援助が始まれば幸運という声さえあるが「どうしたらいいんだろうか」と深刻な悲鳴がそこかしこから上がっている。