能登半島地震の体験と珠洲原発の恐怖 落合誓子[ノンフィクションライター/珠洲市在住]
この日、私たちは世界が変わった
2024年1月1日。 寺の正月は忙しい。年頭の参詣者がほとんど引けて、私は今年初めての食事の用意をしていた。午後4時10分、突然の激しい揺れが……。 慌てて廊下に出た。辺りを見回した直後に右、左と体が引きちぎられるような激しい揺れに見舞われて思わず玄関の柱につかまった。 ガラスが凄まじい音と共に飛び散り、戸の桟が爆(はじ)ける激しい音がした。 1月1日の能登半島地震。この日から私たちは被災者となった。生活の全てが変わった人も多い。元日に着のみ着のままで家から逃げ出して以来、本当に帰る家が無くなってしまった人も多い。 大きな揺れの後、私たち家族は避難所と決められていた飯田小学校へ向かった。津波注意報が2~3分おきに流れ続けるのを聞きながら、高台にある小学校に向かう。その時私たちの生活の場となっている寺の庫裡はさほどの被害はなかった。十数年前に改修を終えたばかりで比較的に新しかったからかもしれない。 しかし、山門は見事に倒壊。跡形もなく崩れて積み木と化していた。 学校に向かう道すがら見た風景は世界が変わっていた。どの道をたどっても壊れた家が行く手を阻む。倒れかかった電柱や、垂れ下がった電線が下を通ることを拒否するようで恐怖だった。娘とその子どもたちは私たちより一足先に避難所に向かっていた。少し遅れたせいか、どの道を通っても今し方潰れてまだ埃が舞っている家の残骸が行く手を阻む。 今考えても、どこをどう通って避難所に行ったのかよく覚えていない。津波注意報が津波警報に変わる頃、ようやく私たちは避難所にたどり着いた。後で知ったがその津波で漁師さんたちが住んでいた海辺の町内がほとんど全滅した。海には転覆した漁船が何艘も底をみせて浮いたり沈んだり……。 町民が一生かけて守ってきた生活の全てが一瞬のうちに崩壊してしまったのだ。
死ななかったのが奇跡
一夜明けた翌日。避難所から家に帰ってみて初めて、私たちは被害の実態を知ることとなった。一見、立っている本堂も正面から見ると、柱の全てが左後ろに傾いている。裏手に回ってみると本堂の後ろがまるで飛んでしまっている。続く客殿は半壊。その上、物置になっていた建物全部が瓦礫(がれき)と化してしまっている。なかなか大変な被害である。 潰れてしまったところは仕方ないとして、悩ましいのが鐘楼堂だった。ひどいところで20度は傾いているが、潰れてはいない。鐘が真ん中で重心をとるのでなかなか潰れないのだという。その上面倒なことに鐘が「初代宮崎寒雉」の作で市の文化財。鐘楼堂が倒れると鐘も無事ではない。 「緊急の折の文化財の保護は一体どうなっているのか」と「文化財室」を訪ねてみたがもちろん、誰も対応するはずもなく、知り合いの伝手をたどってプロの助けを借りて、漸く応急処置をしてもらって今日に至っている。 「こういう風にして文化財が失われていくのかもしれない」 文化財に指定したのは行政なのだ。人と物を動かす権限のない一般市民では如何ともし難い。こうなってしまう前に緊急時の対策を、持ち主と共に普段から考えておかなければならなかったのだと思う。 忘れた頃に「今、文化財の安否調査をしているらしい」という話を聞いたが、今回の地震で大切な古文書類の大半が失われたに違いないと思う。私たちも物置に詰まっていた様々なもののほとんど全てが瓦礫と化してしまっている。 マスコミ関係者の話によると、地震による電気系統の火災で朝市通りが焼失してしまったため報道陣は輪島市にまず集まるが、その足で珠洲市に入ってきて珠洲市の被災状況に言葉が出ないという。 「間違いなくここが一番です」 こんな一番は嬉しくもないが、震源域が2つもあればそれは当然かもしれない。一昨年の6月が震度5強。昨年が震度6強。そして今年も震度6強。気象庁の発表に違和感を持つ市民がとても多い。多いほうが良いという訳ではないが、この揺れで「昨年と同じ」と言われても、誰も納得していないのだ。 輪島と志賀町の一部に震度7があったと言われればなおのこと、なぜあの揺れで珠洲だけが昨年と同じなのか。体験してみるとやはりどう考えても無理がある。こういう正式記録は「歴史を構成する」大切な資料となる。 地震計の精度。置いてあった場所など、いろいろ条件はあるが、今一度納得いく説明が欲しいと考えている市民は多い。 あの家もこの家も潰れている。無事な家などほとんどない。それだけ被害の実態が重かったのだと思う。