皇后定子の死と一条天皇の嘆き 愛し合った2人が詠み残した悲しすぎる和歌とは【光る君へ】
幼い頃から寄り添って歩き続け、互いを深く愛し合った一条天皇(演:塩野瑛久)と定子(演:高畑充希)。定子の実家・中関白家が朝廷での権勢を失った後も、一条天皇は一途に定子を想い続けた。しかし、2人にとうとう別れが訪れる。定子の早すぎる死に際し、2人が詠んだ歌は悲痛な胸の内と尽きることのない愛情を伝えてくれる。 ■定子が残した和歌と最愛の人を喪った一条天皇の涙 兄弟の失脚という逆境の中、一条天皇の深い寵愛を受けてきた皇后・藤原定子でしたが、その関係も突然終わりを告げます。定子が急逝したのです。 長保2年(1000)3月、定子の妊娠が判明します。すでに脩(修)子内親王、敦康親王を出産していた定子でしたが、歴史物語『栄花物語』とりべ野巻は妊娠を喜べず、かえって不安な気持ちに襲われ、涙に暮れる定子の様子を記しています。 定子は宮中から退出して、出産のために平生昌邸に移ります(『日本紀略』)。伊周・隆家兄弟は敦康親王に続く皇子誕生を期待して色めき立ちました。特に伊周の期待は大きく、その祈祷の様子は法師に劣らぬ熱の入れようだったといいます。しかし、名が知られた僧侶たちは、妊娠当初から、定子や兄弟たちと近しいと見られることを恐れ、祈祷の依頼を断り続けていました。ごく限られた親族の僧侶が出産のための祈祷を行っていたのです。 長保2年12月15日の夜、物の怪が移された、よりまし(霊媒)の阿鼻叫喚の中で、定子は出産しました。女の子でした。一条天皇の第二皇女媄子(びし)内親王です。後は後産(あとざん)です。この時代、胎盤を外に出す後産の失敗で命を落とす母体が多くいました。薬湯を定子に飲ませようとしますが、お召しあがる様子はありません。周囲の人々は慌てふためきます。 「大殿油(今でいうランプの灯り)を持って来い」と伊周は命じ、定子の顔を照らしました。そこには生気が失せた、定子の死に顔がありました。驚いて、お身体をさぐったところ、その身体はすっかり冷たくなっていました。伊周は定子の亡骸をお抱き申し上げて、誰はばかることなく声を惜しまずに泣きました。 『栄花物語』はこのような記述に続いて、「長徳の変での伊周・隆家の配流の件で、一門の涙は尽き果てたのであったけれど、涙というものはいつまでも尽きぬものであったのだと見受けられた」と記しています。 定子の死後、御帳台のとばりの紐に結び付けられていた書き置きが発見されました。 よもすがら契りしことを忘れずは恋ひん涙の色ぞゆかしき (夜通し愛のことばを交わしたおことばをお忘れにならなかったならば、私の死後、私を恋しく思って流す涙の色を知りたく思います※この時代悲しみが極まると血の涙が流れると信じられていた) 知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎたつかな (誰も知ることがない死出の旅路に、心細くも急ぎ立つことです) 煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ (煙とも雲ともならないこの身であろうとも、草葉に置く露をこの私と思い、しのんでくださいませ) この三首は明らかに一条天皇その人へのメッセージでした。最後の歌は、定子が火葬ではなく、土葬を希望していたことを表していると言われています。 葬送の夜、一条天皇は天皇という身分から野辺送りに同道することはできません。まんじりともせず、夜を明かされた帝は、土葬ゆえに立ち上る煙を遠くにながめることもできなかったと『栄花物語』は記しています。一条天皇が詠んだ歌は次のようなものでした。 野辺までに心ばかりは通へどもわが行幸(みゆき)とも知らずやあるらん (葬送の地・鳥辺野までわたしの心は慕って野辺送りをするけれど、この雪の中の私の行幸であると、皇后定子は知らないでいるのだろうか) 天皇の移動をあらわす行幸(みゆき)と深雪(みゆき)が掛けられています。 その夜、京は大雪が降りました。伊周・隆家らが付き従い、黄金づくりの糸毛の車で定子の亡骸を鳥辺野まで運びました。御霊屋(みたまや)に雪を払って定子の亡骸を安置しましたが、その御霊屋も激しく降る雪に埋もれていきました。 定子は享年25歳でした。
福家俊幸