高校ではお笑いと音楽の「二刀流」 列車でギター演奏も「貸して」と言った女の子たちが… 話の肖像画 喜劇役者、劇団SET主宰・三宅裕司<4>
《補欠合格ながら、無事に明治大学付属明治高校へ入学した三宅さん。そこではお笑いと音楽の〝二刀流〟の日々が始まる 高校ではバスケットボール部に入りました。でも、練習が厳しくて。校庭のすぐ横に男坂という急な石段があって、その石段を先輩をおぶって何往復もするんです。 すぐ辞めたかったんですが、先輩から「とにかく1年間続ければバスケットボールの良さ、素晴らしさが分かるから」と言われて。それで続けたんですが、「1年続けましたが、良さは分かりませんでした」と先輩に告げて辞めました。 でも、バスケットボール部のメンバーとバンドを組んだんです。みんなバンドをやりたがるんです。演奏などは全部、僕が教えました。 《中学時代のザ・ベンチャーズから、高校ではリズム・アンド・ブルース(R&B)、レッド・ツェッペリンなどのロックにもジャンルを広げていった》 全部教えて、みんなでバッて演奏する。すると1つのサウンドになったときに、今まで経験したことのない感動があるんです。 一人一人が家で一生懸命練習してきたのをバンドで合わせると、こんなふうになるんだというのがすごいんですよね。 バスケットボールはやめましたが、ジャンプ力はありました。体育ではヒーローだったんですよ。 今ではダメですけれど、体育の先生が、めちゃくちゃ殴る先生だったんです。男子校でしたし。でも、生徒思いであることが分かっていたので、人気がありました。 その先生はバレーボール部の顧問で、体育の授業はバレーボールしかやらない。で、授業でもクラス対抗のバレーボール大会でもそうですが、セッターからのトスは三宅に集め、そこでスパイクを打てば勝てるってなった。エーススパイカーですよ。(バスケ部で鍛えたジャンプ力が)それには役立ちました。 《バスケ部を辞めた三宅さんは、落語研究会(落研(おちけん))に入った。子供のころから、ラジオで流れてくる落語に親しんでいたからだ》 落研を作った友達がいまして、私はサポート役です。でも落語研究会という名前のクラブは作れなかったので、「国文学研究会」というクラブの中に落研を作りました。落語も立派な国文学だと言って、学園祭でも落語をやっていました。