「苦しいでしょうがご辛抱ください」と言った主治医に、松下幸之助が返した最期の言葉
一代で世界的企業を築いた実業家であり、「PHP理念」を提唱した思想家でもあった松下幸之助は、1894年の11月に生まれ、明治、大正、昭和を生き、平成元年に94年の生涯を閉じました。生誕130年にあたる今、あらためてその生き方についてご紹介します。 【写真】整列する社員に声を掛ける、1968年の松下幸之助(当時73歳) 構成・文:編集部 協力:PHP 理念経営研究センター 写真提供:パナソニックホールディングス株式会社 ※本稿は、月刊誌『PHP』2024年11月号より、一部編集・抜粋したものです。
松下幸之助 人生マップ
90歳を過ぎたころ、松下幸之助は「130歳まで生きてみよか」と言っていました。当時の長寿記録である124歳を超えて生き、「まだまだ大きなことができる」と語ったのだそうです。実際に亡なくなったのは94歳でしたが、常々語っていた「生命が尽きる瞬間まで、なすべきことをなしつつ生きていきたい」との言葉を体現するような人生でした。その歩みをダイジェストでご紹介します。 (※年齢はその年の誕生日前日までを示します)
0歳 [1894年(明治27)] 11月27日、8人きょうだいの末っ子として和歌山で生まれる。 ◎ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功(1903年) 9歳 [1904年(明治37)] 小学校を中退し、大阪で丁稚奉公を始める。 15歳 [1910年(明治43)] 大阪電燈(現関西電力)に入社。 ◎第一次世界大戦(1914 ~ 1918年) 20歳 [1915年(大正4)] 井植むめのと結婚。 22歳 [1917年(大正6)] 大阪電燈を退職し、ソケットの製造販売を始める。 23歳 [1918年(大正7)] 松下電気器具製作所を創業。 28歳 [1923年(大正12)] 砲弾型電池式自転車ランプを考案発売し大ヒット。 ◎関東大震災 32歳 [1927年(昭和2)] 初めて「ナショナル」の商標をつけた角型ランプを発売。 ◎世界恐慌(1929~1930年代) 40歳 [1935年(昭和10)] 株式会社に改組し、松下電器産業を設立。 ◎太平洋戦争(1941~1945年) 51歳 [1946年(昭和21)] PHP研究所を創設し、翌年、月刊誌『PHP』を創刊。 ◎日本初のテレビ放送開始(1953年) 66歳 [1961年(昭和36)] 松下電器の社長を退任し、会長に就任。 ◎東海道新幹線開業、東京オリンピック(1964年) 73歳 [1968年(昭和43)] 『道をひらく』をPHP研究所より発刊。 ◎日本のGNPがアメリカに次いで第2位となる 78歳 [1973年(昭和48)] 松下電器の会長を退き、相談役となる。 ◎第一次オイルショック 84歳 [1979年(昭和54)] 次代のリーダーを育てるため、松下政経塾を設立。 ◎第二次オイルショック ◎国鉄の民営化によりJRが発足(1987年) 94歳 [1989年(平成元)] 4月27日、逝去。