【親孝行物語】「妻の死から逃げたい…」自宅看取りを選んだ男性が知った“できそこない”次男の底力~その1~
「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉がある。『大辞泉』(小学館)によると、親が生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することだという。親を旅行や食事に連れて行くことが親孝行だと言われているが、本当にそうなのだろうか。 国民の5人に1人が「後期高齢者(75歳以上)」になる「2025年問題」のカウントダウンが始まっている。この「2025年問題」とは現役世代への負担増、生産人口の減少など、人口構造の変化で起こる困難や損失の総称だ。 日本は本格的に、超高齢化社会になる。高齢者が多いということは、多死社会でもある。そこで注目されているのは、グリーフケアだ。これは、大切な人と死別し、悲観した人に寄り添う心のケアのことをいう。 東京近郊で一人暮らしをしている芳雄さん(74歳)は3年前に、妻(享年75歳)をがんで亡くした。「家に帰りたいというカミさんの望みをかなえてやりたくて、自宅看取りをした。次男(46歳)がいなければ後を追っていた」と語る。
職員旅行で酩酊、介抱したのは妻
芳雄さんは、東京近郊の自宅で一人暮らしをしている。持ち家でお金には困っていない。 「僕は大学を出てから、公務員になった。当時、今みたいに“社会に貢献する公僕”という感じではなく、“親方日の丸の楽な仕事”という認識だった。僕は初対面の人が苦手で、引っ込み思案なところがあるから、言われたことだけをやって、安定したかったんです」 そんな芳雄さんの父は苦労人の実業家、母は聡明なビジネスパーソンだったという。生い立ちを聞いた。 「強烈なのは父です。大正生まれの父は20代で結核を患ったために、兵隊に取られなかった。同級生が続々と出征し、戦死の知らせが届く中、20代を過ごしたんですよね。あの時代は、“兵隊になってこそ立派な人”という時代の空気で、父は石を投げられたこともあったようです。内心、忸怩たるものがあったんでしょう。戦争が終わり、父は“未来を作る子供達に腹いっぱい食べさせてやりたい”と、30歳のときに食品工場を立ち上げ、大成功。花屋さんやレコード店なども経営し、多くの人を雇い、面倒を見てきたんです。だから“公務員になって楽な仕事で一生を終えたい”と宣言した僕のことが歯痒かったのかもしれません」 父は民生委員もしていて、困難を抱える家庭を支援、元受刑者の更生などにも取り組んでいたという。 「今も昔も、困難を抱えている人の中には、“一般的な常識”が抜け落ちている人も少なくありません。父が金を持ち逃げされたり、いきなり失踪されたりする様子を見てきた。それに、事業は資金繰りなども大変。だから、僕は公務員になったんです」 芳雄さんの母もまた個性が強い人物だ。父が広げる大風呂敷を、現実的に落とし込むのは母だった。 「母は専務として現場の陣頭指揮をとっていました。母は貧しくて上の学校には行けなかったのですが、とにかく頭が切れる。父と結婚し、僕と弟を産んだものの、母は僕たちをろくに育てていない。お手伝いさんに任せて、自分は店や工場に行ってしまう。母の姿で覚えているのは、高速でそろばんを弾いている姿(笑)。ただ、可愛がってはくれましたし、何でも買ってくれました」 両親、住み込みのお手伝いさん、親戚、従業員など多くの大人の手で育てられた芳雄さんは、大学に進学し、公務員になる。 「公務員になった翌年の職員旅行で行った湯河原温泉で、カミさんに出会ったんです。向こうは友達と来ていた。僕は下っ端で、先輩方に酒を飲まされて、へばっていたんです。猛烈な苦しさと気持ち悪さで死ぬかと思っていたとき、カミさんがタライを持ってきて、僕の口に指を突っ込んで吐かせてくれました」