【親孝行物語】「妻の死から逃げたい…」自宅看取りを選んだ男性が知った“できそこない”次男の底力~その1~
昭和50年代、4歳年上の妻は「異端」だった
妻は、職員旅行で酩酊した芳雄さんの口に指を入れて吐かせてくれた。親からもそのような介抱をされたことがない芳雄さんは、妻の行動に衝撃を受けた。 「酔いながらも、お礼をしたいから住所を教えてほしいと言ったら、“別にいいよ”とそのときは別れてしまった。その後、1か月くらいしてから、大学の友達に誘われて、新宿のコンパに行ったんです」 コンパとは当時流行していた飲食店の業態で、飲食を楽しむが、ナンパをする場でもあったという。 「その店は、可愛い女の子が集まる人気店という触れ込みでしたが、その日はとても空いていた。しばらく友達と話していたら、“マスター久しぶり”と聞き覚えがある声が空から降ってきた。それがカミさん。あのとき、体にビリビリビリって稲妻が走るみたいになって、その後、猛烈にアタックして結婚してもらいました。当時、僕が24歳で、カミさんは28歳。さらにカミさんは離婚歴があった。昭和50年代、恋愛結婚が増えたとはいえ、今よりも恋愛の感覚は古かった。自分より年下の初婚の女性と結婚するというのが“当たり前”だった時代に、僕が選んだカミさんは異端でした」 妻は中学卒業後、集団就職で東北地方から上京。苦労して准看護師の資格を取得していた。勤務を続けながら夜間高校を卒業している苦労人だ。 「それまで付き合ってきたガールフレンドと全然違う。“この人しかいない”という感覚。カミさんは、“あんたと結婚は無理よ。絶対に反対される”と言っていましたが、ウチの両親は両手を上げて大歓迎。特に母はカミさんのことを娘のように可愛がって、着物や帯留め、指輪などを譲っていました」 妻と母は似ているという。自分の信じた道は突き進み、主体性を保ちつつ、人生を切り開いていく人物だ。 「2人とも生まれが貧しく、早々に社会に放り出されたから、そうなったのかもしれません。目標を決めたら、石に齧りついてでも達成する根性は、ぬるま湯育ちで慎重な僕にはない」 妻と結婚後、長男、次男と男の子2人を授かった。妻は一時的に仕事をやめ、育児に専念。芳雄さんの実家から、家政婦さんの応援も来て、近くに保育所ができたこともあり、妻は仕事に復帰する。 「仕事が始まれば、夜勤だ何だと家を空ける。僕の仕事はゆるいので、息子たちの運動会や授業参観に顔を出していました。息子たちが“お母さんがいい”と寂しがるので、“せめて日曜日は家族で過ごそう”と取り決めても、カミさんは仕事を入れてしまっていた」 そんな毎日が落ち着いたのは、芳雄さんが定年退職した60歳以降。定年延長をして働いていた妻は、64歳のときにスパッと仕事をやめた。 「息子たちも社会人になり、やっと夫婦の時間。カミさんが家にいて、一緒に生活する楽しさを味わいました。そこでわかったのは、カミさんはあれだけ働きながらも、食事の支度や掃除、洗濯などをやってくれていたこと。僕がやっていたのは、カップラーメンを作ること、洗濯物を取り込むこと、息子たちと遊んでいることだけだったんです」 【コロナ期に腰痛が酷くなり、救急搬送される……その2は関連記事から】 取材・文/沢木文 1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。
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