【プロ1年目物語】セ新人40年ぶりの打率3割、史上初の新人外野手Gグラブ!「天才・高橋由伸」衝撃デビュー!
松井が抱いた危機感
そして、1年目を終えた背番号24はオフに自動車、お菓子、ファッションブランドとCM業界を席巻することになる。当時のスーパーアイドル広末涼子とも共演し、人気ピーク時にはダイハツから新型スモールキャブワゴン「アトレー7」の高橋由伸バージョンが発売されるほどだった(24番ユニフォーム風シートカバー&「Yoshinobu」ロゴ入りカーペットマット付きで170万円也)。 今思えば、21世紀が近づいていた90年代後半、平成球界は新世紀の象徴となるニュースターを欲していた。そこに登場したのがまっさらなルーキー“1998年の高橋由伸”だった。彼は誰よりも新しく、なにより格好良かった。55番のゴジラ松井が伝統の継承者ならば、由伸は新時代の旗手だった。あの頃、1998年から99年にかけて、メディアを席巻した由伸バブルはイチローや松井をも凌ぐ勢いだった。プロ2年目の99年シーズン、背番号24は4月に打率.433、8本塁打、29打点で月間MVPを獲得。5月5日にはプロ初の四番に座り、三冠王を狙えるペースで打ちまくっていた時期、球団広報の香坂英典は試合後のロッカールームである光景を目撃する。
「その試合でも由伸は打ちまくり、ヒーローインタビューを終え、ロッカーに戻ってきた。そんな由伸を横目に、その日も結果を残せなかった松井は試合後一人ロッカーで椅子に腰掛け、自分のスパイクを磨いていた。その表情が明らかにいつもの松井ではなかった。このままでは由伸に負ける……。大きな危機感を感じている松井がそこにいた。もちろん「そうなのか?」と松井には聞けないが、僕は強くそれを感じていた」(プロ野球現場広報は忙しかった。裏方が見たジャイアンツ黄金時代/香坂英典/ベースボール・マガジン社) 当時の中堅・ベテランが多い長嶋巨人において、松井はずっとレギュラーで最年少だった。FA入団組の落合博満や清原和博も自分よりはるかに年上である。そこに一学年下の天才打者が入団してきたわけだ。当初は余裕を持って歓迎したが、やがてその後輩は恐ろしい勢いでスーパースターへの階段を駆け上がる。このままではオレは負ける――。その危機感は、バットマン松井をさらに上のレベルへと導くことになる。実際に松井が自身初の本塁打と打点の二冠を獲得したのは、高橋が入団した98年シーズンのことである。背番号24の出現以降、二岡智宏や阿部慎之助ら大学球界のスター選手たちが逆指名で入団してきて巨人の主軸は一気に若返る。その中心にいたのは20代中盤の若きMTコンビ、松井秀喜と高橋由伸だった。 1999年、巨人戦地上波テレビ中継の年間平均視聴率は20.3%を記録している。ジャイアンツのナイターが視聴率平均20%を超えたのはこの年が最後だ。いわば巨人戦が“国民的行事"といわれた、地上波中継時代最後のスーパースターが高橋由伸だったのである。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール