【プロ1年目物語】セ新人40年ぶりの打率3割、史上初の新人外野手Gグラブ!「天才・高橋由伸」衝撃デビュー!
その疲労と緊張からくる高橋本人の硬い表情に、マスコミは熱狂的な長嶋ファンでG党の父親の不動産投資問題や莫大な契約金等を書き立てたが、不思議と高橋本人にダーティーなイメージがつくことはなかった。そして、長嶋監督は高橋の逆指名に狂喜乱舞のコメントを残している。 「東京から電話があってまず“万歳三唱”しました。これほど喜びを感じたことはなかった。よく決断してくれた。非常にセンスのあるプレーヤー。松井(秀喜)とは違う柔らかみを持っている。あえていえばイチロータイプかな。走れる、守れる、肩も強い。あらゆる面でプロ向きの選手です。ベースからベースを回るあの足の運びと、体全体の躍動感。あれは10年どころか20年に一人の逸材。ありゃ内野手向きで、しかもファンに近いサード向きだ。自分でいうのもアレだけど、長嶋みたいな三塁手になれるよ」(週刊ベースボール1997年11月24日号)
もはや興奮しすぎて勝手にサード転向案をぶち上げるご機嫌なミスター。学生時代のバレンタインデーにはチョコを持った女子が教室に殺到して、拡声器を持った教師がそれを警備した伝説を持つドラフト1位のプリンス高橋に対してはスポーツ紙だけではなく、女性誌など野球メディア以外からの注目度も高かった。 年が明けた1998年1月、新人合同自主トレで風邪を引きキャンプ2軍スタートとなり、取材が殺到したことによるトレーニング不足が不安視されるも、2月中旬には一軍昇格。すぐさま週べでも「天才・高橋由伸を解剖する」という特集が組まれ、見出しから「頭も技術も柔らか。その巧さは力強さを上回る次元の違う巧さ。大変な打者の出現だ!」と大絶賛されている。「高校、大学でのキャリア申し分なし。マスク申し分なし。性格良し。冷静さもありそうだ。ドラマ性も十分だ」と称賛の嵐。初めての紅白戦では初アーチを含む5打数4安打5打点と期待以上の大活躍を見せる。
前評判通りのプレー
オープン戦でも右翼守備で、大学時代に投手として148キロを記録した強肩を披露すると、長嶋監督は「高橋は巨人の野球を変えます」とまで言い切った。オープン戦ルーキー大賞に選出され、1998年4月3日、23歳の誕生日に迎えた野村ヤクルトとの開幕戦。慣れ親しんだ神宮球場で「七番右翼」でスタメン出場を飾り、第3打席でサウスポー高木晃次の初球を捉えライト前へプロ初安打を放つ。次打席でプロの洗礼となる初死球を受けるが、背番号24は怯まなかった。第3戦では川崎憲次郎から左中間フェンス直撃の勝ち越しのタイムリー二塁打を放つなど、チーム開幕3連勝の原動力に。東京ドームデビュー戦の7日広島戦では、山内泰幸からプロ初アーチを右翼席中段へ叩き込んだ。 そんな前評判通りのスタートダッシュを見せた逸材に長嶋監督の反応も早かった。開幕7試合目の横浜戦で早くも五番起用し、「三番清原和博、四番松井秀喜、五番高橋由伸」の豪華クリーンアップが実現。当初は五番起用されるとプレッシャーからかなかなか結果が残せず、六番や七番に降格したが、やがて番長とゴジラとウルフの“MKT砲”は長嶋巨人の顔となる。プロの世界、結果を残せば周囲の反応も変わってくる。話題のルーキーの素顔に迫った同年発売の『ベースボールアルバムNo.122 高橋由伸』(ベースボール・マガジン社)では、異例のマイカー通勤許可の様子がリポートされている。球団には大卒新人でも1年は運転禁止のルールがあったが、長嶋監督は「実力があれば、そんなものは大した問題じゃありません」なんてあっさり特別待遇を認めた。そして、初めて愛車の黄色いボルボで東京ドームに出勤した5月2日ヤクルト戦、背番号24はプロ初の満塁弾を叩き込むのだ。その無類の勝負強さで、このルーキーイヤーに放った2本の満塁アーチは、新人最多記録として今も破られていない。