死刑執行が決まった日「元気でゆけよ」「さよなら」特攻隊長はとぼけた顔をして~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#61
やはり私の考えが正しい
<冬至堅太郎「苦闘記」より> これに対し幕田さんは、現実生活に対する示唆は何らそこから得られないがそれでいい。否そのようなものは必要なく、したい放題のことをしてよい。そこに善悪の差はないのだと主張するのだった。 この問答は未解決のままになっていたが、それについて最後の言葉が送られて来たのだ。 「最後になってやはり私の考えが正しいことがわかった」 伝言は極めて簡単で、何故正しいとわかったかの説明は何もない。恐らく問い返しても幕田さんは答えられなかっただろう。
見送った死刑囚の仲間を思い
冬至堅太郎は3ヶ月後、減刑されて終身刑となるのだが、石垣島事件の7人まで、あわせて26人の死刑囚を見送っている。それぞれの人との思い出があり、幕田大尉についても、交わした言葉を思い起こして、心の中で何度も噛みしめたようだ。幕田が到達した「悟り」について冬至は自分なりの解釈で結論を出した。 <冬至堅太郎「苦闘記」より> 私は今になって幕田さんは因果の理法と即一になり、そこには悪の入りこむ隙もなく、自在の境にあったと思う。しかし私にはまた私の道があるのだ。それは二つのものではなく、一つの真理が、境遇も性格も、更に死への距離も違った幕田さんと私には、異なった現れ方をするのだと思うのである。 〈写真:戦犯たちの遺稿を集めた「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会 1953年)〉 のちに、冬至堅太郎は石垣島事件7人を含めた戦犯、約700人分の遺稿をまとめた「世紀の遺書」の発起人となり、編纂委員も務めたー。 (エピソード62に続く) *本エピソードは第61話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。