「書いてはならない」にどう立ち向かうか? 「書けなさ」について考える【後編】
思考家/批評家/文筆家の佐々木敦さんによるWEB連載「ことばの再履修」の第3回。前回(「ことばにできないもの」はどこにあるのか? 「書けなさ」について考える【前編】)につづき、「書くこと」の前にしっかりと考えておきたい「書けなさ」について、佐々木さんが重要な作家の例もふんだんに、さらに踏み込んだ講義をします!
書いてはならない…「禁止」をめぐって
前回も触れましたが、「チャンドス卿の手紙」や『論理哲学論考』の訳者である丘沢静也は、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」とウィトゲンシュタインが『論考』の結論部分で述べたときの「語りえぬもの」、そしてホーフマンスタールの分身である架空の人物チャンドス卿が「書くためだけでなく、考えるためにも私にあたえられているかもしれない言語が、(中略)私がその単語をひとつも知らない言語であり、ものを言わない事物が私に話しかけてくる言語」だと手紙に書きつけたときの「言語」とは、「小さな島(論理)ではなく、大きな海(倫理)」なのだと述べています(つまり「語りえるもの」が「論理」です)。語りえぬもの、書けないことについてのこのような解釈は非常に興味深く、かつきわめて現代的です。 ヴ(ママ)ィトゲンシュタインは〈多くの人の口から出まかせにしゃべられていることのすべてを、[……]それについて沈黙することによって、確定した〉(引用者注:ウィトゲンシュタインが編集者に送った手紙からの引用)が、現代は世紀末ウィーンとは比較にならないほど情報量が多い。しかも玉石混淆。言葉を尽くしても伝わらないことは多い。美辞麗句を並べても、言葉だけでは絶対に信頼は生まれない。言葉は軽い。だから、言葉を疑うことを忘れず、言葉の限界をしっかり意識して、微力な言葉を磨いて、ていねいに使う。そんな倫理的な心構えが必要な季節になった。(『チャンドス卿の手紙/アンドレアス』訳者解説) これはホーフマンスタールとウィトゲンシュタインを踏まえた丘沢自身の考えと言ってもいいかと思いますが、ウィトゲンシュタインが『論考』を著したのは、「論理=語りえること」の外縁(=限界)を突き止め、劃定(かくてい)することによって、いわば背理法的に(否定神学的に? )「倫理=語りえぬこと」の存在をあぶり出すためであったのだということは同解説でも説明されています。『論考』の結論の少し前には「六・四二一 倫理が言い表しえぬものであることは明らかである」(野矢茂樹訳)という命題(文)も置かれています。 ここで重要なのは、「倫理」が言い表しえぬもの、語り得ぬものであるのだという主張のうちにーーチャンドス卿が述べていたようにーー実際には書くことがなされていないわけではないのだが、しかし書いたら嘘になってしまう、書けたと思ったとしても、ほんとうは書いたことにはなっていない、もっと強い言い方をするなら、要するにそれは書いてはならないものなのだ、という一種の禁止の命令(? )が潜在しているのではないか、と思えてくることです。倫理は、語らないこと、書かないこと、沈黙によってしか、その存在を示すことができないのだという、それ自体きわめて倫理的な態度が、明らかにそこには窺えます。