「書いてはならない」にどう立ち向かうか? 「書けなさ」について考える【後編】
「書きえないことを書くこと」
もう少し、大昔の拙論から引用してみます。 どこかに「書きたいこと」や「書かれるべきこと」(「書くべきこと」ではない)があって、それは確かにあるのだが、しかし「書くこと」によって「書かれたこと」となる筈の「そのこと」を、どうしても「高橋源一郎」は、どこまでいっても/そもそものはじめから「書きえないこと」だと考えてしまう。それはつまり、体験や記憶や情動といったようなものと、言葉や文法との偏差が、絶対的に超え難いものとしてその都度立ちはだかるということなのだが、(…)それはしかし、絶対的に超え難いとその都度思えてしまうとはいえ、たとえば「書くということ」そのものの根底に鎮座する実のところ結構ポジティヴな否定性というようなこととはぜんぜん違う。 そうではなく、「高橋源一郎」にとって、その「偏差」とは、必ずや、いってみれば技術的、方法的にクリア出来る筈のものなのである。それが彼にはわかっている。「書きたいこと」や「書かれるべきこと」は、いつかは「書かれたこと」になってしかるべきなのだ。しかし、にもかかわらず「高橋源一郎」は、未だにそれを果たすことが出来ていない。今回もまた出来なかった、まだ出来ない、ずっと出来ていない、いつまでたっても出来ないのではなかろうか、と彼は思っている。なぜ出来ないのだろうか? どこかがまちがっているのだろうか? しかしいつかは必ず、とも「高橋源一郎」は思っている。なぜなら、それは、よくよく考えてみれば、どう考えてみても、ほんとうは「書きえないこと」でもなんでもないからだ。それはただ彼自身が、そう思い込んでしまっている、それだけのことであるからだ。 だから、いわゆる「書くこと」が何もない、というのなら、実は全然ましなのだ。だって「書くことが何もないということ」についてなら、まだいくらでも書けるのだから。問題は、ここに(そこに? )「書くこと」は現に頑として在るのに、それがいつの間にか常に既に「書きえないこと」にすり変わってしまう、そうとしか思えなくなってくる、ということにこそある。そして、それはあくまでも「技術」と「方法」の問題としてあり、だからこそ、いつまでたっても/どこまでいっても、「書きえないことを書くこと」を諦めることが出来ない、ということにある。(同) 「書きえないことを書くこと」。繰り返しますが、それでも書いてしまうことはできるし、実際に書けてしまう。たとえ誰かに「そんなのでは書けたことにはならない」と言われてしまうのだとしても、とにかく書くことはできてしまう。ランズマンのようなあらかじめの全否定を相手にするなら別ですが、とにかく書いてみることから始めて、書き続けていくのなら、少しずつでも上手くなって「書きえないこと」を「書きえたこと」に近づけてゆくことができるかもしれない。「技術」と「方法」の問題だというのは、そういう意味です。