「書いてはならない」にどう立ち向かうか? 「書けなさ」について考える【後編】
高橋源一郎の「書けなさ」
ホロコーストは疑いなく、20世紀の人類が経験した、最も悲惨な、二度と起きてはならない出来事です(同様の出来事を二度と起こさないことは21世紀の人類の責務です)。だからこそランズマン的な「表象不可能性」が絶対的なものとされるわけですが、このような「不可能性」は、他の事象に対しても、また個人の体験や記憶にかんしても、時として発動します。 前回私は「「書けなさ」の原因は、自分自身にある場合と、「書きたいこと」の側にある場合が」あると述べておきましたが、「書きたいこと」を蝕む「書けなさ」という問題は、自分にとって非常に重要な、人生を変えてしまうほどに決定的な出来事について書こうとする場合にこそ、目の前に立ちはだかります。このことにデビュー以来ずっとこだわり続けている日本の作家がいます。高橋源一郎です。 2006年発表なのでかなり昔の文章ですが、私は以前、この問題にフォーカスを絞った高橋源一郎論を書いてみたことがあります。それは次のように始まっていました。 「高橋源一郎」的「問題」とは、つまるところ、次のようなものだ。 書けないことを書くにはどうしたらいいのか? こんなたったの一行に還元できる「問題」に、ひたすら「高橋源一郎」はこだわり続けている。登場した時からそうだったし、途中もずーっとそうで、今も(たぶんますます)そうだ。 では「書けないこと」とは何か? 。ここには、「書き得ないこと」ということと、「書きたくないこと」ということ、の二つの意味の次元があって、そしてその二つはかなりややこしく絡み合っている。そして更に、それらの少し下の方には、「書くべきでないこと」とか「書いても仕方のないこと」とか「書くのが面倒くさいこと」とかがあったりする。ともかくも「高橋源一郎」にとって、「書けないこと」へのこだわりは、そのまま「書くこと」の起動力であり、つまりは「書くこと」の存在理由でさえある。 「高橋源一郎」は、「書けないということ」を、確認し反復し強化しながらも(彼はそうせずにはいられない)、それに必死で抗って(彼はそうせずにもいられない)、それゆえにこそ「書く」(そうしなくてもいいのかもしれないと彼は時々思う)。結果として「高橋源一郎」の「小説」は、極度の抵抗/摩擦との闘争の場の相貌を露骨に帯びることとなり、それは時として奇妙にいさましく見えたり、奇妙に滑稽に見えたり、ひどくかなしく見えたり、ひどくだらしなく見えたりもする。(「「黙秘権を行使します」ーー高橋源一郎論」) ここまでの話と完全に繋がっていますね。自分の考え方/書き方のあまりの変化(進歩? )の無さに少々うんざりしてきますが、それはまあ仕方ないとして(要するにこれは私自身の問題でもあるということだと思います)、高橋源一郎という小説家にとっては「書けない」ということが「書くこと」の最大の動機であり、と同時に最大の障壁でもある、ということです。文字通り、彼は書けないことを書きたい。むしろ書けないことだからこそ書きたい。書けないことを書くために、彼は作家になったのです。