初代中村萬壽、長男に時蔵の名を譲り、孫は梅枝を継いで一からスタート「歌舞伎役者として最初の転機は23歳のとき、松緑のおじさんとの出会いだった」
◆「坊やちょっとこっちおいで」と…… 歌舞伎の世界は一つの大きな家族のようで、だから若手は先輩を「おじさん」「お兄さん」と呼ぶことができる。(血縁のないお弟子たちは、「旦那」「若旦那」だが) それで萬壽さんの第1の転機となるのは? ――転機って、その時はわからないものですよね。あとになって、あぁ、あの時のことが次へと大きく繋がったんだ、とわかったりする。 私の場合、23歳の時に池袋のサンシャイン劇場に出たことだと思います。 新劇場で始まった第1回の歌舞伎公演は(坂東)玉三郎・(尾上)菊五郎のお兄さんたちで、第2回が(市川)海老蔵時代の先代團十郎のお兄さん。 出し物は成田屋のお兄さんが「白浪五人男」の弁天(小僧)をなさって、去年亡くなった(市川)左團次さんが南郷(力丸)。私は赤星(十三郎)でした。 もう一つが所作ごとの『義経千本桜』「吉野山」で、海老蔵のお兄さんが狐忠信、私が静(御前)でした。その時の振り(振付)が紀尾井町の藤間家元でしたので、その二代目(尾上)松緑のおじさんが舞台稽古を見に来られて。
お洋服のまま舞台に上がって主に海老蔵のお兄さんにあれこれ注意なさるんですが、そのうち「坊やちょっとこっちおいで」って、女雛男雛の顔を見合わせるきっかけを教えてくださった。 当時は菊五郎劇団と吉右衛門劇団とが今より明確に分かれてまして、多分この時、初めておじさんにお会いしたんだと思います。 それで、なぜかその時の私の芸を気に入ってくださって、「松緑さんが梅枝を使いたいとおっしゃるんですが、いかがでしょう」と、松竹の重役から祖母に連絡があった。 うちの祖母(三代目時蔵夫人=小川ひなさん)は歌舞伎界のゴッドマザーと言われた、芸のよくわかる人で、それまでちょっと紀尾井町のおじさんとはわだかまりがあったんですが、「それじゃあよろしく」となり、それから道が開けた気がします。 松緑のおじさんの秋の明治座公演に呼ばれ、初代辰之助(三代目松緑)のお兄さんの『赤西蠣太(あかにしかきた)』の相手役小江(ささえ)の役に抜擢されました。それがご縁で菊五郎のお兄さんとも、今もずっと相手役をつとめさせていただいてます。 二代目松緑のおじさんは人を集めて振る舞うのがお好きだったんで、初日と楽の晩は紀尾井町のおうちに集まって、それがとても楽しかったし、また大いに芸の勉強にもなりましたから、これは第1の転機ですね。 (撮影=岡本隆史)
中村萬壽,関容子
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