初代中村萬壽、長男に時蔵の名を譲り、孫は梅枝を継いで一からスタート「歌舞伎役者として最初の転機は23歳のとき、松緑のおじさんとの出会いだった」
34歳で早逝した四代目時蔵は「超」のつく美貌の女方で、晩年にはよく十七代目勘三郎の相手役をつとめた。最後の舞台は『め組の喧嘩』の辰五郎女房お仲で、千秋楽1日前の晩、睡眠薬事故により、亡くなったとか。 十七代目が辰五郎の扮装で幕外に出て、「時蔵が、死にました……」と、悲痛な面持ちで客席に報告した、と聞いている。 ――十七代目のおじは、祖父の弟ですから大叔父に当たります。父の死後は本当に親代わりのようになって面倒をみてくれました。 父は亡くなる1年半ほど前に四代目時蔵を襲名しましたけど、その披露狂言の『妹背山』「御殿」で、父がお三輪、私は梅枝として初舞台。十七代目のおじは豆腐買おむらで、私の手を引いて出てご披露してくださいました。 私が父と同じお三輪の役で五代目を継いだのは26歳の時ですが、この時も中村屋のおじさんは豆腐買で出てくれて、初舞台の獅童君の手を引いていました。 今回の倅の襲名狂言がやはり同じお三輪で、孫の梅枝の手を引いて出てくれるおむらの役は(片岡)仁左衛門のお兄さんです。「親戚なんだから出るよ」と言ってくださってね。 私が父を亡くしてから、十七代目のおじが『鏡獅子』を踊る時は、亡くなった哲明(のりあき)勘三郎(十八代目)と私は同い年ですから2人で胡蝶に出たり、また、子役に必要なお囃子やお三味線の稽古も中村屋のおじさんの家で一緒にやらせてもらったり、夏の若手勉強会「杉の子会」で大きな役をおじさんから習ったり……。 夏の間は箱根の仙石原に行ってらっしゃって、そこに私たちも何日間も泊まってお稽古していただいたりと、それはもう楽しかったですよ。 最初の年は『対面』(『寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)』)で、私は十郎、哲明勘三郎が五郎、今の(中村)又五郎が工藤(祐経)でした。 2回目からは成駒屋(六代目歌右衛門)のおじにも『本朝廿四孝』「十種香(じしゅこう)」の八重垣姫とか『鎌倉三代記』の時姫、『関の扉(と)』(『積恋雪関戸(つもるこいゆきせきのと)』)の墨染と小町とか、いろいろ教えていただきました。
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