ラグビー・フィーバーから学ぶべきもの――闘う男たちと日本文化
日本代表が史上初のベスト8入りを果たすなど、予想以上に盛り上がったラグビー・ワールドカップ。日本代表の前に立ちはだかった南アフリカの優勝で1カ月半の大会に幕を閉じましたが、ラグビーロスになっている人も少なくないのではないでしょうか? 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏も、今回のラグビー・ワールドカップを楽しみながらも、独自の「文化力学」的な視点でさまざまなことを考えたようです。若山氏が論じます。
ラグビーという団結の闘魂
80分経過を知らせるブザーが鳴る。タッチラインにボールを蹴り出す。 ノーサイド! 勝った方も、負けた方も、選手が大地に崩れ落ちて動かない。死闘を尽くしたのだ。男たちの饗宴は終わった。 日本で開催されたアジア初のラグビー・ワールドカップは予想を超える熱狂ぶり、ほとんどすべてにおいて大成功であった。日頃は乱暴なことに目を背ける淑やかな女性たちも、男たちの肉体のぶつかり合いに興奮して応援に熱を入れた。テレビドラマや、eスポーツや、ショー化した格闘技では見られない、リアルな闘魂が展開されたからだ。もっとも、内心では自分の息子にはやらせたくないと思っていたかもしれないが…。 サッカーは、フォワードとディフェンスの違いはあるものの、選手の役割が似ていて、より「個人技のゲーム」であることを感じる。アメフトは、役割分担があまりにも明快で、その枠を超えられないことから「組織力のゲーム」であることを感じる。ラグビーは、個人がチームを支え、チームが個人を支える、つまり「個々人が団結するゲーム」である。 昔『コンバット!』というアメリカのテレビドラマがあったが、ちょうどラグビー・チームぐらいの規模の小隊が、ヴィック・モロー扮するサンダース軍曹に率いられ一体となって戦う面白さがあった。ラグビーも、団結して敵陣を目指し自陣を防御するのは、戦争に似ているといえば似ている。 相次ぐ災害に襲われる日本列島に「うれしい想定外」をもたらしたこのラグビー・フィーバーを、例によって文化論的に考察してみよう。