軍事施設として利用された甲子園球場は爆撃で炎上 高校球児の夢を奪った戦争の悲劇
今年も夏の甲子園大会のシーズンがやってきた。全国の高校球児たちの夢の舞台・甲子園。しかし、太平洋戦争時、甲子園球場は軍事施設として利用され、空襲や機銃掃射による攻撃を受けた。日本の高校野球文化が盛り上がった戦前、そして戦時下の甲子園球場について取り上げる。 ■大都市に成長した大阪で高校野球文化が大輪の花を咲かせる 全国中等学校優勝野球大会は、始まると同時に大人気を博した。地の利もあった。大会が始まって7年後の大正12年(1923年)9月1日に、関東大震災が起きたからである。 この大震災によって東京は大打撃を受け、しばらくは文化も娯楽も停滞した。企業や富裕層が次々に大阪に移り、しばらくの間、関西圏が日本の中心となったのである。 以後、昭和の始めにかけての1920年代、大阪は大いに輝いた。東大阪地域は阪神工業地帯の中心となり、朝鮮半島からの移住者を含む大量の労働力を吸収し、近代的産業都市として発展した。 大正14年(1925年)には意欲的な関一(せき・はじめ)市長のもと、第二次市域拡張計画によって日本一の大都市、世界的に見てもベルリンに次ぐ6番目の大都市となったのである。 維新後に遷都案があったにもかかわらず、東京に決まって涙を飲んでから60年後のことだった。ここに「大大阪」「グレート大阪」時代が始まる。大阪は日本一のモダン都市となり、モダンな大阪を見に行くという「大阪洋行」という言葉も生まれたぐらいである。 甲子園大会は関西の勢いに乗って発展した。当初、大会は今の大阪府豊中市にあった豊中球場で行われていた。広さは2万平方メートルで、陸上競技場としても使われていた。しかし、なんと言っても狭い。会期短縮のため複数のグラウンドも必要になった。 そこで大正6年(1917年)から、会場が西宮の鳴尾球場に変更される。しかし人気は高まる一方で、関東大震災が起きた大正12年の第9回大会準決勝では、会場に入りきれない観客が押し合ったために柵が壊れ、試合が中断される騒ぎまで起きたのである。 そこで大阪朝日は、本格的な野球場建設を模索する。ちょうど阪神電鉄も開発の一環として、グラウンドの建設を考えていたところで、話はとんとん拍子で進んだ。完成予定の大正13年(1924年)が干支の組み合わせで縁起のいい甲子年(きのえねとし)だったので、甲子園大運動場と名づけられた。 内野には鉄筋コンクリート製のスタンドや、甲子園を特徴づける大鉄傘が設けられた。当時としては破格の大きさで、関係者は当初、観客が集まるかどうか心配したほどだった。 本大会に2回出場した父親の回想によると、甲子園球場は今まで見たことのない広さだったという。夏は白い服を着ることが普通だった当時、ボールが飛ぶと背景の白さと相まって全く見えなくなり、すっかり調子が狂って負けてしまったそうだが。 観客で埋まるかどうかという心配は杞憂に終わった。甲子園大会の人気はさらに高まり、昭和4年(1929年)には外野に、これも甲子園名物であるアルプススタンドが増設された。 ■太平洋戦争開戦で高校球児の夢の舞台が軍事施設へ…… しかし、そんな甲子園にも戦火の影が忍び寄る。昭和17年(1941年)、軍が主導し文部省が主催した全国中等学校錬成野球大会(別名・幻の甲子園)が開かれたのを最後に、大会は中断する。 昭和18年(1943年)8月には、金属供出で大鉄傘が取り外された。甲子園球場も使われなくなり、スタンドは高射砲陣地、グラウンドも内野は芋畑、外野は軍用トラック置き場となった。 外野スタンドの下は軍需工場に、一塁側スタンドの下は航空燃料の倉庫、室内プールは潜水艦の研究に使われるようになる。かつて球児たちが白球を追いかけた甲子園球場は軍事施設になってしまったのだ。 そのためか、広島に原爆が投下された8月6日に、B29による猛空襲を受ける。5000発とも言われる焼夷弾がスタンドとグラウンドに突き刺さり、甲子園球場は三日三晩燃え続けた。 昭和17年(1942年)の幻の甲子園で、肩を壊しながらも最後まで投げ抜き、平安中学の準優勝に貢献した富樫淳は、近くに住んでおり、心配で父親と共に急いで子を見に行った。 グラウンドには不発弾が林のように突き刺さっていた。「かつての夢の舞台の変わり果てた姿を前に、野球をこよなく愛した親子は涙をこらえることができなかった」(『昭和17年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち』早坂隆) 大会は敗戦の翌年に復活したが、GHQに接収されていたため使えず、昭和22年(1947年)にようやく甲子園球場での試合が実現した。 「白球飛び交うところに平和あり」 これは戦時中の中止に反対し、敗戦後の復活にも尽力した日本高野連第3代会長、佐伯達夫の言葉である。開会挨拶史に残る名言として、しばしば引用されてきた。 焼け焦げた甲子園球場を目の当たりにした世代にとって、これはどうしても後世に残したい言葉だったのだろう。100年を超える歴史の中には、球児たちが躍動しプレーごとにスタンドが湧く夏の光景が、当たり前ではない時代があったことも忘れたくない。
川西玲子