日米の違いを押さえて読むべき世界標準のジャーナリズム書
海外ジャーナリズムの残念な実態
読者諸兄姉も耳にしたことがあるかもしれないが、メディアやジャーナリズムの文脈では、しばしば海外のそれらが礼賛される。だが実態は案外そうでもない。政治や現代社会、メディアの問題を専門とするこの書評の筆者は、関連して海外メディアの取材を受ける機会がそれなりにある。インタビューを担当するのは、現地契約の記者(やインターン)であることが大半で、プロパーの社員記者が担当することは滅多になかったりする。 また海外メディアは公開前にインタビュイー(インタビューの受け手)に原稿をチェックさせないのが慣習だ。この点をもって「海外メディアは取材対象から独立していて優れている。それに対して日本のメディアは!」と対比されがちだが、公開された記事を見ると、まったく見当違いの直接引用がなされていることも珍しくないのである。日本語から英語への翻訳というワンクッションを挟む場合には頻繁に認められる。どちらが優れているだろう? 公開前にインタビュイーに確認させた方がクオリティがあがる場合もあるはずだ。なぜこうなっているのかというと、欧米の報道機関ではネットやSNSの台頭以前に、すでにコストカットが進んでいるので「やむを得ない」ということに過ぎない。それゆえ記事のバイネームが「まともな記事」を判断するうえで重要になってくるというわけだ。結局は欧米型ジャーナリズムも環境依存の産物に過ぎないのだ。そのことをなぜか横文字の海外動向が好きな最近のジャーナリストたちは看過しがちである。自分の目とアタマを使ってこそのジャーナリズムのはずだ。
日本の幸せで不幸なメディア環境
それに対して日本はどうか。組織ジャーナリズム、しかも新聞、テレビという2つの伝統的なマスメディアが未だに「主流」を自任できている。日本ではストレートニュースの担い手は今も昔も新聞社であり、放送事業者のままであるし、そのように認識されている。 今でも我々はそれなりの信頼感をもって、新聞(紙)を読むし、テレビを眺めている。我々にとってはそれほど違和はないが、新聞社や放送事業者もネットを主戦場としつつある世界の状況と比べてみればこれはかなり珍しい状況だ。 ある意味幸せなことであり、同時に不幸なことである。前者は信頼できる蓋然性の高い情報基盤(小欄の筆者は最近「トラストな情報基盤」と呼んでいる)を現在でも伝統的なマスメディアが担うことができているという意味であり、後者はまったくと言ってよいほどネットを中心とした報道メディアが存在しないことである。それどころかオピニオンメディアですら安定的に存続できないことが明らかになってしまった。 報道はメディアにとって端的にコスト部門である。支局を配置し、記者を育成し、デスクを置いて情報を精査し、クレーム対応をしなければならず、誤報があれば社会問題になりかねない。日本の「インターネット元年」と呼ばれる1995年以後、何度もネットメディアが試行錯誤されてきたが、本格的なニュース媒体、オピニオン媒体はおろかブログ等のコンテンツを集めてくるアグリゲーションサイトも2010年代後半から閉鎖、統合、規模縮小が相次ぐなどなかなか成功モデルが登場しないままだ。 例えば、かつて人気を博したキュレーションメディア「NAVERまとめ」は2020年9月にサービス終了、ニュースアプリ「SmartNews」は2023年に4割の人員削減をすると報道された。また、2023年には「BuzzFeed Japan News」が「ハフポスト日本版」に統合されるなど、ネットメディアの苦戦が続いている。 2020年代半ばに差し掛かった現在では、既存事業者も日本経済新聞などを除くとネット対応が進まず、売上も減少する一方である。日本新聞協会の調査によると、2022年度の新聞社の総売上高は1.3兆円で、10年前のおよそ2兆円から大幅に減少している2。 報道も影響を受けている。新聞社では支局の閉鎖、記者を中心とする人員削減、コストカットも続き、まるでネットコンテンツと見紛うばかりの、エビデンスや公益性との関連が定かではないナラティブな記事(「エモい記事」)が紙面を飾るなど苦境に立たされている。