日米の違いを押さえて読むべき世界標準のジャーナリズム書
「注釈係」としてのジャーナリズム
しかし、メディアと報道を取り巻く環境が大きく異なる「日本標準」と本書の拠って立つ前提はかなり違う。比べていけば、あまりに当てはまらないことが多すぎて困惑するかもしれない。しかし、だからこそメディア関係者、業界志望者必携といえよう。 ジャーナリストはいまもジャーナリズムの主要な担い手だ。本書によれば、「新しいジャーナリスト」の役割は「注釈係」なのだという(p.58)。注釈係はより具体的には「真実証明係」であり、「理解を助ける人」であり、「目撃証人」であり、「監視犬」(ウォッチドッグ)を主たる役割とする。さらに「情報を集約する者」「コミュニティを作る者」など6つの役割を見出している。 「注釈係」という言葉はかつての「関門係」との対比で用いられている。「関門係」という言葉はメディア論やメディア研究をかじったことがある読者にとっては、「ゲートキーパー」という英語のカタカナ表現のほうが馴染むのではないだろうか。私的利益や市場の利益と公益を峻別する重要な役割を担った。人々が知るべき情報とそうでない情報を人々の信頼を得ながらゲート(関門)を開け締め「できる」(と見なされる)存在だったのである。 だが本書は「新しいジャーナリストがやろうとするのはもう、関門係としての古典的役割、つまり人々が何を知るべきかの判断ではない」とすがすがしいまでに断言する(p.58)。留意すべきは、ここでいう「新しいジャーナリスト」は読者、視聴者との情報の非対称性を前提としていないという点にある。市民やときにはAIも看過できない存在となっているからといえる。それどころか、情報接触手段が多様化したことで、読者や視聴者がジャーナリストを上回る情報を有している可能性すら想定したうえで、改めてジャーナリストの存在理由を提示しているのだ。筆者のいう「注釈係」の意図するところは下記のとおりである(p.58)。 取材相手やテクノロジーと力を合わせ、読者・視聴者の知識を整理し、行動を可能にする。これは単に、ニュース報道に解釈や解説を加えるという意味ではない。そうではなく、もっと独自の、もっと多様な仕事を行うことだ。それらは、ニュースの担い手としてより丁寧に理解することで、もっと優れた形で行えるようになる。 本書におけるこれらの主張は、すでにネットがメディアの主役となった社会におけるジャーナリズムとジャーナリストを念頭に置いていることは明らかだ。ところが、日本はそうはなっていないのである。だから違和が生じる。ネットが中心になった社会におけるジャーナリストの場合、記者個人が重要な存在だ。その記事を誰が書いているかが重要ということだ。