西田敏行さんに「愛してるぞーい!」 地元の郡山市が感謝のコメント
福島県郡山市出身の俳優で歌手でタレントの西田敏行さん(76)が17日、亡くなった。地元からは、突然の訃報(ふほう)を悲しみつつも、希代のエンターテイナーへの感謝の思いがあふれた。 【写真】泉ピン子さん、西田敏行さんに聞いた財布の中身 嗚咽「名優だった」 西田さんは、俳優をめざして東京都内の高校に進学するまで市内で過ごした。1996年には市を応援する「市フロンティア大使」に就任し、イベントで郡山のPRに貢献。2011年の東日本大震災の後は、音楽イベントや祭りなど復興関連のイベントに積極的に参加し、郡山はじめ福島の風評被害払拭(ふっしょく)に尽力した。 最近では、今年9月1日の市制施行100周年に関連した「郡山うねめまつり」公式テーマソングに参加したり、100周年記念祝賀花火イベントにメッセージを寄せたりしていた。 郡山市の品川万里市長は「突然の訃報に接し、市民とともに心からお悔やみを申し上げます。俳優業で輝かしい実績を残されたほか、その朗らかな笑顔と涙もろく温かい人柄、素朴な郡山弁の語り口で、多くの人々を魅了されました。我々郡山市民の誇りであり、多大なるご功績を残された西田敏行様に改めて感謝の意を表し、心からご冥福をお祈り申し上げます。西田敏行さん、『愛してるぞーい!』」とのコメントを出した。 9月16日に市中心部の開成山公園で開催された市制施行100周年を記念する祝賀行事では、西田さんの代表曲「もしもピアノが弾けたなら」とともに花火が打ち上げられた。 打ち上げ前には、西田さんのコメントが流れた。「郡山の皆さん、おばんです! 西田敏行です。郡山市の市制施行100周年おめでとうございます」。西田さんは「郡山は何と言っても『フロンティアスピリッツ』にあふれる土地柄だと思っています。私は高校進学を機に俳優をめざし、上京しました。若い皆さんには、どんどん夢にチャレンジして郡山の次の100年をつくっていってほしいです」と呼びかけた。 郡山は明治期以降、荒れ地に猪苗代湖の水を引き開拓することで発展していった。西田さんは、そんなふるさとの歴史になぞらえて若者たちにエールを送り、「郡山の皆さん、愛してるぞーい!」と締めくくった。多くの市民が涙を流しながら、花火を見上げていた。 このメッセージを収録したのは8月下旬。市政策開発課長の宗形敏広さん(55)が「花火を盛り上げるためにお願いできれば」と要望したところ、西田さんは快諾してくれたという。テレビドラマ「西遊記」や「池中玄太80キロ」をリアルタイムで見た、西田さんの大ファンでもあった。緊張しながら東京の事務所を訪れた宗形さんに、西田さんは「郡山からわざわざありがとう」と、郡山弁まじりでやさしく声をかけてくれた。 収録時間は十数分だったが、終始気さくに対応してくれた。顔色や外見はテレビで見るのと変わらず、元気そうだったという。宗形さんは「突然の訃報は驚きで、信じられないし残念でならない」と話した。「西田さんのふるさと郡山を、次の時代につないでいくと誓い、ご冥福をお祈りしたい」。 市民も突然の訃報を悲しんだ。郡山市に住む伊東路子さん(53)は「テレビで見るとまだまだ元気そうだったので、急な知らせに驚いた。特に震災後の、福島に寄り添った活動や言葉の温かさは、私たち県民の心に深くしみ入りました。ありがとうございました」と涙ながらに語った。 市内の女性(50)も「子どものころから大好きな俳優さんでした。震災後、福島に本気で寄り添ってくれたことには感謝しかありません。これからもずっと、郡山の誇りです」と悼んだ。(斎藤徹)
朝日新聞社