【訪問記】ケルン西部にあるトヨタコレクションを訪ねる スープラ、2000GT、セリカ等、歴史的コレクションに加え多くのレースカーも!
ル・マンでは、日本のメーカーが長年にわたって総合優勝を目指していた。1991年、小さなマツダチームが、地獄のような叫び声を上げるヴァンケルロータリーエンジン「787B」レーシングカーでル・マン24時間レースに優勝、成功したことは、当然ながらトヨタを大いに悩ませた。最初の本格的な挑戦として、トヨタはイギリスのエンジニアでレーシングカーのデザイナーでもあるトニー サウスゲートに美しい「TS010」の開発を依頼した。3.5リッターV10を搭載し、プジョー、ポルシェ、マツダとの強力な競争に打ち勝つはずだったが、「チーム トムス」経由のセミワークス参戦は、優勝した「プジョー905エボ1B」から6周遅れの総合2位に終わった。1993年は4位にとどまったため、トヨタは1994年にV8ターボエンジンを搭載した新LMP1レギュレーションでマシンをスタートに送り込んだ。当初はオーストリア人のローランド ラッツェンバーガーがトップマシンをドライブする予定だったが、4月末にイモラで開催されたF1レースのプラクティス中に事故死。アイルランド人のエディ アーバインが代役を務め、イタリア人のマウロ マルティーニ、アメリカ人のジェフ クロスノフとともに2位でレースを終えた。悲願の優勝は叶わなかった。不気味な出来事: ラッツェンバーガーに加え、チームメイトのクロスノフもわずか2年後にトロントのインディカーレースで亡くなった。
耐久レースの伝説
1990年代末、トヨタはライバルのBMWと共同でル・マン優勝に挑んだ。そしてバイエルン勢もまた、この時代、トヨタにとって優勝を争う最も手ごわい相手となった。日本勢が武器として選んだのは、「GT-ONE」の名で親しまれているクローズドの「TS020」プロトタイプだった。シャシーとドライブトレインはケルンのトヨタモータースポーツが開発し、エアロダイナミクスはイタリアのレーシングカーメーカー、ダラーラが担当した。ツインターボV8の排気量は3.6リッターで、開発期間は2年足らずと非常に短かった。しかし、「TS020」の走りは素晴らしく、レース終了1時間前までトップを快走していたが、ティエリー ブーツェン、ラルフ ケレナーズ、ジェフ リーズのギアボックスがギブアップ。