「女の努力は冷笑されてきた」伝説のテニス選手ビリー・ジーン・キングが示した性の平等
テニスを通して、女性の人権のために闘いつづけた女性ビリー・ジーン・キングは、すべてに全力を尽くし闘いつづけてきました。 自身がレズビアンであることをアウティングされた経験から、LGBTQ+の人権保護活動にも尽力し、オバマ元大統領から女性アスリート史上初の大統領自由勲章を授与。 「世界一尊敬される女性」(米雑誌Seventeen)や「最も重要な20世紀のアメリカ人100人」(米雑誌LIFE)など、多くの栄誉にも輝いています。80歳を迎えた彼女が信念に満ちた半生を、初めて語ります。 ※本稿は、ビリー・ジーン・キング著、池田真紀子訳『ビリー・ジーン・キング自伝』(&books/辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
世界を夢見た子ども時代
子供のころ、カリフォルニア州ロングビーチの小学校の教室でプルダウン式の大きな世界地図をながめては、そこに描かれた国や地域をいつか訪れる白昼夢を見た。イギリス、ヨーロッパ、アジア、南アメリカ、アフリカ! このころすでに、国境線なんて軽々と越えていけるつもりでいた。 国境線はおいでと私を誘っていた。物心ついたときから一つのところにじっとしていられず、いつも何かしら大それた夢を抱いていて、思い立ったらすぐに行動しなくては気がすまなかった。家族や生まれ故郷を心の底から愛していたが、人生はきっとその2つから遠いところへ私を連れていくだろうと信じていた。 私は1940年代、第二次世界大戦中に生まれ、50年代の保守の世に育ち、60年代の冷戦とカウンターカルチャーのただなかで大人になった。父は消防士で、母は家事を切り盛りするかたわら、ときおりタッパーウェアやエイボンの化粧品の訪問販売をして家計を助けていた。 複雑な家庭環境で育った両親は、愛情あふれる安定した家庭を私と弟のランディに与えてくれた。その一方で、世の中は揺れ動いていた。私の子供時代の背景には、市民権運動や女性解放運動(ウーマンリブ)、冷戦、暗殺事件、1960年代の反戦運動があった。LGBTQ+運動の盛り上がりはまだ少し先の話だ。 1950年代に私がユーステニスでプレーを始めた時点では、女子を対象とする大学スポーツ奨学金は一つも存在しなかった。そのころあった女子のプロスポーツ組織は、全米女子プロゴルフ協会(LPGA)だけだった。 LPGAは1950年、13名の選手によって創設されたものの、スポンサー獲得と認知度向上はまだ思うように進んでいなかった。 私たちがいまスポーツ選手の男女同権運動と聞いて思い浮かべるような動きが始まったのは、1970年、私を含めた9人の女子テニス選手と『ワールド・テニス』誌の創刊者でやり手のビジネスウーマンだったグラディス・ヘルドマンが男性主導のプロテニス協会から離脱し、初の女子プロテニストーナメントを創立した日といっていい。 男性に支配された当時のプロテニス組織は、女の試合など金を払ってまで観たがる人がいるものかと私たちをせせら笑い、現に金を払ってまで観たがる人が一定数いるらしいとわかると、出場停止処分を下すと繰り返し脅してきた。