「女の努力は冷笑されてきた」伝説のテニス選手ビリー・ジーン・キングが示した性の平等
「女だから」というだけで
私は初めから世界に不満を抱いていたわけではない。けれど世界のほうは、私のような女の子、私のような女がはっきりと気に食わないらしかった。 テニス大会に出場が決まり、学校を一週間休もうとしたときは校長の許可が下りず、母が学校に出向いて「うちの娘はオールAの優等生です。何がどう問題なんです?」と直談判してようやく承諾書にサインをもらった。 あるいは、休み時間にみんなと校庭で遊んでいるとき、「ビリー・ジーンは運動神経が優れているのをいいことに、ほかの生徒を負かそうとしがち」だから、学科の成績を一段階下げたと説明する手紙を両親に送ってきた教師もいた。 私が11歳で初めて出場した大会では、出場選手が集合写真撮影のために集まったとき、地元のテニス協会の会長ペリー・T・ジョーンズから、白いスコートやワンピース型のテニスウェアではなく白のショートパンツ姿だからというだけの理由で、私一人だけつまみ出された。 その当時、女の子あるいは女が目標を掲げてそれに取り組もうとすると、冷笑されたり、難癖をつけられたりすることが少なくなかった。私は納得がいかなかった。 なぜ勝手な制限を押しつけようとするのだろう。理にかなった疑問を投げかけているだけなのに、女だとなぜ"ヒステリック"といわれるのか。 なぜいつもいつも「これはできない。あれはやってはいけない。野心はほどほどにし、自己主張をせず、立場をわきまえ、実際よりも能力が低いふりをしていること。とにかく言われたとおりにしていなさい」と諭されなくてはならないのか。 女の努力や個性はなぜ、人生を充実させるもの、自尊心のよりどころとして尊重されるのではなく、扱いにくいものとして敬遠されるのか。 テニスを始めたばかりのころ、私が出場した大会を主催するカントリークラブは白人専用で、私が通っていた人種混合校ロングビーチ・ポリテクニック高校とは明らかに空気が違っていた。 ポリテクニック高校は、私が生まれる前、1934年に人種差別を撤廃した。ただ、私が通っていた当時もまだ女子の運動部はなく、テニスがやりたければ、市営公園で開かれていた無料テニス教室に通うしかなかった。 時が流れても、状況証拠はますます高く積み上がる一方だった。たとえばランキング上位の男子ジュニア選手はロサンゼルス・テニスクラブの食堂で無料のランチを食べられたが、母と私はコート裏のベンチに座り、茶色い紙袋で持参したお弁当を食べた。私だってジュニアのトップ選手の一人だったのに、女子選手への支援は皆無だった。 15歳のとき、私がある大会で優勝すると、のちに頼れる助言者となったある男性が声をかけてきてこう言った。 「きみはいつか世界一になるよ、ビリー・ジーン」 そんなことを言われたのは初めてだったから、私は有頂天になった。しかしだいぶあとになって、その同じ人が、私のバックハンドを褒めるような何気ない口調でこうも言った。 「きみはきっと一流の選手になれる。それだけ不細工なら」 ラリー・キングと結婚し、世界ランキング1位に昇り詰めてからも、テニスにそこまでする"価値"が果たしてあるのか、あなたはいつ引退して子供を産むのかと、ことあるごとに尋ねられた。 そのたびに私は、同世代の男子トップ選手を引き合いに出して、「相手がロッド・レーヴァーでも同じ質問をします?」と訊き返した。 女はかならずしも男女同権運動の活動家として生まれてくるわけではない。けれど人生は、女をかならず活動家に育て上げる。現状打破を求める気持ちは年齢とともに強くなった。乱気流にもまれていたのは時代だけではなかった。私の内側の嵐も勢力を増していった。