米軍を渡り歩いた日本男児・サイトウ曹長の冒険譚「若い頃に『沈黙の艦隊』を読んで、いつか海に出たいと思った」
立っていても座っていても、みじんも隙を見せない。米軍迷彩戦闘服に身を固めたその男はサイトウと名乗った。出身は日本だが、細かい出自、生年月日、本名は機密。謎に包まれた米軍日本人兵、サムライ米兵の血統。 【写真】教官として各国の兵士に教えるサイトウ曹長 今の日本は、日米同盟がほぼ唯一の生き残る道となった。米軍との絆が、日本にとって唯一の命綱になっている。いくつもの部隊を見てきた彼が米軍という組織の神髄を語る。 【"米軍全クリ"に最も近づいた日本男児 サイトウ曹長の米軍を巡る冒険譚 〈第1回 入隊・訓練編〉】 * * * ■米軍に指導をする日本人がいた―― アメリカ東海岸、バージニア州。その南部に位置するフォート・グレッグ-アダムスという駐屯地に、国中の兵站(へいたん)関連の陸軍兵が集まる合衆国兵站大学がある。 学びに来るのは新兵ではない。一定の経験を積んだ陸曹や幹部、そして日本の自衛隊を含む約26ヵ国からの留学生がここで研鑽(けんさん)を深める。 その施設内にある榴弾砲(りゅうだんほう)の隣で、生徒に向かって話す日本人教官の姿があった。 「――俺が今、スナイパーに撃たれて戦死したとしよう」 山岳戦闘のエリート師団、第10山岳師団を経て武器科の教官になった男を前に、生徒たちに緊張が走る。 「仮にふたりしか砲についていなかったら、戦死した俺の代わりにおまえが777に装填(そうてん)しなければならない。おまえができなければこの分隊は全滅だ」 鋭い眼光とよく通る声から、いくつもの死の現場を経験してきたことがうかがい知れる。 「いいか?『教えてもらおう』なんて思うな。『教えてもらわなかったから』なんて言い訳、本物の戦場じゃ通用しない。生きて帰ってこれないぞ」 教官は「サイトウ」と名乗った。陸軍の迷彩服をまとっているが、肩には海兵隊の臂章(ひしょう)が、胸部では海兵隊徽章(きしょう)のバッジが鈍く光を反射している。かつて米海兵隊の一員として、イラク戦争で実戦を経験しているのだ。