浦和 “最高傑作”の助っ人「日本でプレーするなんて」 クラブ史に刻まれる偉大な勇者の誕生まで【コラム】
2005年に浦和がロブソン・ポンテを獲得…サポーターに愛された存在
山瀬功治が怪我をしていなかったら、藤田俊哉が名古屋グランパスを選んでいなかったら、浦和レッズの歴史にロブソン・ポンテという偉大なる勇者の名は刻まれなかった。 【ギャラリー】Jリーグを沸かせた往年のブラジル人助っ人たちの「今」 司令塔の山瀬が2004年9月18日のアルビレックス新潟戦で左膝前十字じん帯を断裂。全治6か月の重傷を負った。当時のギド・ブッフバルト監督が「山瀬に代わる選手はいない」と嘆息したほど、攻撃の陣頭指揮を執る重要人物だった。 残りのシーズンと翌年夏までは主に山田暢久がトップ下を担当したが、当人は「山瀬みたいなプレーはとてもできない。あの感覚とか感性は(ほかの選手とは)ちょっと違うからね」と本音を漏らしていた。 2005年1月末、その山瀬が横浜F・マリノスへ移籍。前年に第2ステージを制し、年間王者を決めるチャンピオンシップに出場するなど、Jリーグ初優勝を狙える体制がようやく整ったというのに、中盤の大黒柱がいなくなった。 クラブは慌ててトップ下候補を照会したが、年が明けて各チームとも練習を開始している。重鎮を獲得できる可能性は極めて低かった。 そんな折、ジュビロ磐田の黄金期を支えた大御所の藤田に白羽の矢を立てる。山本昌邦監督が前年秋に就任し世代交代を進めるなか、05年序盤の藤田は先発もあったが、ベンチ外や控えも増えていた。 浦和と名古屋が獲得に名乗りを上げたが、森孝慈ゼネラルマネジャー(GM)が金銭面で名古屋に劣ることを案じていたように、藤田は名古屋への移籍を決断する。 ひと息つく暇もなく、広い人脈を生かして森GMが情報集中に当たると、ブンデスリーガのレーバークーゼンに腕利きのブラジル人選手がいることを知った。それがポンテというMFで、クラブとの契約更改で立ち往生していると聞き、代理人を通じて加入を打診したのだ。 ポンテは「ドイツに6年いたけど、日本でプレーするなんて考えたこともなかったし、代理人もいいことばかり言っていたんだ」と半信半疑のまま、極東の地にやって来た。