浦和 “最高傑作”の助っ人「日本でプレーするなんて」 クラブ史に刻まれる偉大な勇者の誕生まで【コラム】
半信半疑でやってきたJリーグでデビュー「1試合で大勢の支援者を虜に」
2005年7月30日、マンチェスター・ユナイテッドとのボーダフォンカップがお披露目試合で、8月14日のナビスコカップ準々決勝第2戦の清水エスパルス戦で公式戦にデビューする。 J1の初陣はトップ下で先発した6日後のFC東京戦。旺盛にボールを要求しては良質なパスと力強いドリブルで攻めの起点になったばかりか、豪胆に敵陣へ進出してゴールを狙った。それは近代サッカーの模範的プレーメーカーの姿だった。 前半39分、絶品のスルーパスで永井雄一郎の同点弾を演出すると、後半9分には梶山陽平からボールを奪取し、鋭い中距離弾を突き刺して決勝点。次の瞬間、両手でユニホームの胸を引っ張りながら、ゴール裏のサポーターに向かって走り出した。 「たくさんの観客(4万4400人)にも驚いたが、それより熱狂的な応援がすごくてびっくりした。毎試合ベストを尽くし、あの熱いサポーターを喜ばせたいね。欧州のクラブからもオファーがあったけど、浦和でプレーできて嬉しいよ」 ポンテはこの1試合で大勢の支援者を虜にした。 それは総大将らも同じだ。ブッフバルト監督は「今日のポンテには特別にお礼を言いたい。本物のゲームメーカーだ」と礼賛し、主将の山田は「これで俺の負担も減るし、得点力は上がっていく」とニンマリ。敵将・原博実監督は「中盤と前線を目まぐるしく出入りするから、捕まえるのが難しかった」と脱帽した。 ポンテはこのFC東京戦から新潟との最終節まで、リーグ戦に16試合連続で先発し8得点。ゴールを決めた試合は5勝2分け(31節の東京ヴェルディ戦は2得点)と、無類の勝負強さを示した。 私は練習場、試合会場やイタリア料理店などで、ポンテと公私に渡っていろんな話をしてきたが、「マイボールを命懸けで守る」と放った言葉が今でも忘れられない。 「ボールを失うといつも短距離選手みたいに追い掛けるね?」と水を向けると「攻撃の選手だって守備ができないと駄目だよ。ボールを取られたら思いっ切り走り、奪い返すためなら反則してもいいくらいの覚悟でやっている。勝ちたい、負けたくないという気持ちがあるから自然とそうなったんだろうね」と言った。まさしく闘争心の権化に思えた。 2005年はJリーグが1シーズン制に移行した1年目だが、浦和は優勝争いの大団円に痛い黒星を2度喫した。30節は首位のガンバ大阪に、32節は5位ジェフユナイテッド市原・千葉にいずれも1点差で敗れた。