11月12日「洋服の日」に考える皇室とドレスの「政治的関係」
ドレスとティアラに巨額の国家予算
美子皇后の大礼服は、首相兼宮内大臣の伊藤博文が1986年、ドイツ公使を務めた青木周蔵らを通じてベルリンの裁縫師のマックス・エンゲルに発注し、1987年1月1日の新年拝賀式に皇后が初めて着用したことが判明している。 『昭憲皇太后実録』によると、皇后の大礼服がベルリンに発注後の1986年8月、洋服調製費として美子皇后から有栖川宮熾仁(たるひと)、威仁(たけひと)、伏見宮貞愛(さだなる)、北白川宮能久の4親王妃に対しそれぞれ5000円が下賜されていた。この下賜金を原資に、有栖川宮威仁親王家では、ベルリンに中礼服を注文。威仁妃薫子(やすこ)の礼服代1万円(現代の価格にして約5000万円)の半額に充てたとされるが、北白川宮富子妃も同様にベルリンに中礼服を注文したとみられる。 次に1889(明治22)年の新年拝賀式で皇族妃らが着用したドレスの模様を伝える1989年1月2日付の「郵便報知新聞」の記事にも、富子妃のドレスの色は「浅黄」とあり、1986年にベルリンで製作された中礼服を着用した可能性がある。 ベルリンに発注した美子皇后の大礼服とテァラの値段は、総額15万4000円で、欧化主義の象徴とされた鹿鳴館の建設費(約18万円)に相当する。総理大臣の年収が9600円と言われた時代で、現代の貨幣価値に換算すると、少なくとも7億円以上にのぼる。
皇室にドイツ文化を取り入れたワケ
皇后や皇族妃らの宮廷服やティアラ、宝飾品に巨額の国費が投じられた訳だが、それではなぜ、ドレスの調達先がモードの中心地であったフランスやイギリスではなく、ドイツだったのか。 ドイツ皇室を模範とする伊藤博文の皇室外交、いわゆる「宮中のドイツ化」と密接な関係はあるが、そればかりではない。 当時の日本は憲法をはじめさまざまな制度を導入する際にドイツを一つのモデルにしていたことは広く知られるが、背景には日本が幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約の改正を目指し、交渉を有利に進めたいという思惑があった。 日本政府は当初、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式をそれぞれ採用していたが、陸軍の軍制が明治20年前後にドイツ式に転換していくのも、帝国主義時代の国際情勢を反映した冷厳な選択の一つだった。 同時に、日本が西洋と同じ価値観を共有する近代国家となったことを証明するには、皇后が洋装化することが一番効果的と、伊藤博文は考えたのであろう。そうすれば、皇族妃や女官をはじめ皇室の藩屏である華族階級の婦人たちも洋服を着るようになるからだ。 ドレスと帝国主義。皇后を先頭とする宮中女子の洋装化は、単なるファッションではなく、国家の威信をかけた国策だった。 吉原康和(よしはら・やすかず) ジャーナリスト、元東京新聞編集委員。1957年、茨城県生まれ。立命館大学卒。中日新聞社(東京新聞)に入社し、東京社会部で、警視庁、警察庁、宮内庁などを担当。主に事件報道や皇室取材などに携わり、特別報道部(特報部)デスク、水戸、横浜両支局長、写真部長を歴任した。2015年から22年まで編集委員を務め、宮内庁担当は、平成から令和の代替わりの期間を中心に通算8年。主な著書に『歴史を拓いた明治のドレス』(GB)、『令和の代替わりー変わる皇室、変わらぬ伝統』(山川出版)、『靖国神社と幕末維新の祭神たちー明治国家の英霊創出―』(吉川弘文館)など多数。