なぜ災害のたびに「迷惑ボランティア」が“批判”されるのか 日本にはびこる「冷笑主義」の正体
1月1日に起こった能登半島地震の影響はいまも続いている。 2月には、被害が大きかった石川県珠洲市でボランティアの人手不足が起こっていると報道された。3月には、ボランティア不足を解消するため、石川県輪島市の団体が全国の大学教授と協力して学生を受け入れる取り組みを始めた。 震災発生の当初、石川県は「受け入れ態勢が整っていない」として、ボランティアが個別に来ることは控えるよう呼びかけた。馳浩県知事も、1月5日の時点で「能登への不要不急の移動はくれぐれも控えてください」と自身のX(旧Twitter)アカウントに投稿している。被災地での本格的な受け入れが始まったのは、1月27日からだ。 現在のボランティア不足の背景には、SNSを中心に巻き起こった「ボランティア・バッシング」も影響しているだろう。災害当初から、SNSではボランティアが被災地に行くことを批判する声が広がっていた。 今回の地震では被災地の状況よりも「現地に向かったボランティアのせいで渋滞が起こっている」「炊き出しボランティアのマナーがひどい」といった、ボランティアの「悪行」ばかりに注目が集まった。マスメディアがボランティアの必要性を説くための報道を行っても、SNS上では報道に対するバッシングのほうが目立つ状況だ。 そもそも、2011年の東日本大震災の際にも、「迷惑ボランティア」や「迷惑マスコミ」に対する批判は多々あった。なぜ災害のたびにボランティアの「迷惑」が問題視されるのだろうか。 過去に「迷惑マスコミ」批判についての分析を発表し、ソーシャルメディアについても詳しい慶應義塾大学 メディア・コミュニケーション研究所の津田正太郎教授に話を伺う。
ボランティアは「見返りがあるはずだ」と疑われる
――今回の震災では、被災地を支援するためにボランティアに行った人たちの「迷惑行為」を取り上げて批判する投稿が、SNSで目立ちました。 津田教授:まず、今回の能登半島地震については、「道路や交通の状況がかなり悪い状況でボランティアに行くべきでない」といった批判がありました。被災地の交通状況が落ち着いていないのに拙速にボランティアに行ってしまうと、渋滞を引き起こしてしまい、被災者に迷惑をかけてしまうことになります。そのため、この批判自体は理にかなっているところがあると思います。 しかし、過去の事例を振り返ると、そもそも日本ではボランティアという行為が批判されやすい、という背景があることにも目を向ける必要があります。 交通アクセスや被災地の状況といった問題も、ボランティアを批判するための「口実」に使われた、という側面があるでしょう。 ――ボランティアが批判される背景には、どのような心理や考え方があるのでしょうか。 津田教授:社会学者の仁平典宏さんの著書『「ボランティア」の誕生と終焉―〈贈与のパラドックス〉の知識社会学』(名古屋大学出版会、2011年)に基づいてお話します。 ボランティア活動は、その行為をしている人が実際に思っているかどうかとは別に、一般的には「無償」で行うものだと見なされています。「自分の労力や時間などを相手に差し出して、相手から見返りを求めない」というイメージですね。 このように無償でおこなう行為は、社会学や人類学などの学問では「贈与(贈与行為)」と呼ばれます。そして、贈与とは、私たちの日常生活からすると不自然に感じられる行為です。 お店でお金を支払ってなにかを買ったり、自分が仕事をして給料を受け取ったりするなどの「経済行為」は、基本的には「等価交換」に基づいています。通常の社会では、私たちがお金や労力や時間を相手に差し出す場合には、差し出したものと同じくらいの価値を持つ見返りを相手から受け取る、ということが前提になっていますよね。 不自然に見える贈与行為は、経済行為の理屈で解釈されてしまいがちです。つまり「無償でボランティアするなんてありえない」という前提に基づいて、ボランティアをする人の「本当の動機」を探る、ということが行われる。 具体的には「実はお金が発生しているのではないか」「こっそり中抜きしているんじゃないか」と言われたり、「売名行為ではないか」「相手をコントロールしようとしているんじゃないか」と言われたり。 ボランティアから支援を受ける側である人たちも、ボランティアの動機を疑うことがあります。1986年には、身体障がい者である花田えくぼさんという方が、機関誌に「ボランティア拒否宣言」という詩を発表しました。 この詩では「ボランティアの人たちは自分たち(身体障がい者)をアクセサリーにして街を歩いている」と書かれており、ボランティアが自己満足のために身体障がい者の自立をないがしろにしている、と批判されています。 また、ボランティアを提供する側も、相手や外野からの「勘繰り」を避けるために工夫を凝らします。たとえば、利己的な動機を、あえて自分たちから主張することです。「困っている人を助けるためにボランティアをしている」と言うと偽善的に聞こえてしまうので、「自分が楽しいからやっている」「自分を成長させるためにボランティアをしている」と主張するなど。 「贈与」は不自然に思われて疑われてしまうので、「贈与ではないですよ」とボランティアをしている側もアピールしてきた、という歴史があるわけです。